いぇ〜い啄木見てる?

小学校の頃教科書に載っていた短歌で、覚えている歌が2つあります。

ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく(石川啄木)

たはむれに母を背負ひてそのあまり
軽きに泣きて三歩あゆまず(石川啄木)

1つ目は、故郷の方言が聞きたくなって人がいっぱいいるとこなら自分の故郷の方言を喋る人がいるんじゃないかと駅に行くっていう歌です。

2つ目は、ふざけて母をおんぶしてみたらその体重の軽さに泣けてしまい全然歩けねえ、って歌です。

なんで他人の歌を解説してるんでしょうかね。

ともかくこの2つの歌は僕にとってとても印象的で、ずっと頭の中に残っていたのでした。そして最近知ったのがこの歌はどちらも石川啄木の『一握の砂』が出典だということ。

おいおい。

啄木はイケメンのくせに、僕を魅了する歌まで詠んでしまうのです。流石に嫉妬します。

というわけで啄木への嫉妬にまみれた僕は啄木にマウントをとるような歌を詠んでみたのでした。

①こんな句は詠めないだろう啄木よ
昔はインスタなかったからな

僕が啄木に勝てるものがあるとしたら、それは住んでる時代の便利さ。啄木がいた時代と今の時代どちらが短歌を詠むにあたって相応しいとかはないと思いますが、今の時代の方が人と人の関わりなども広く多様性のあるものになってきていると思います。なんと今の時代にはインスタがある。これにより詠める歌の幅も増えている(?)。なのでこんな歌も詠めてしまいます。

②誰からも連絡のないインスタが
狂わす僕の生活リズム

「インスタ」どころか啄木の時代には「生活リズム」なんて言葉もなかったのではないでしょうか。存在する語彙の差も僕が啄木に優位をとれる点です。ちなみにこの歌は、誰も起きてないのにインスタの更新をシャカシャカやり続け眠らずにいる情景を詠んでいます。

続いてこの歌。

③啄木が停車場に行くその一方
未来の俺は親とSkype

先程紹介しました「ふるさとの訛りなつかし〜」の歌に対して詠んだものです。啄木の時代では故郷の訛りを聞くにも人が大勢いる駅に行かなくてはいけません。そんな人と濃厚接触するリスクを啄木が抱えている一方で、2020年ではビデオ通話を通じてオンライン帰省ができます。停車場に行ってもふるさとの訛りが聞けるとも限らないですが、Skypeを使えばあら不思議、自分が聞きたい訛りにダイレクト!夜中に駅に行っても人はいないでしょうが、夜中だろうと実家の親を電話で叩き起こせば訛りが聞ける時代になりました。そういえば啄木は東京へ移る前は僕の故郷である北海道にいたらしいですね。僕のふるさとの訛りも堪能しやがって。

④この俺が歌人の道を行く間
墓でスヤスヤ眠る啄木

無敗で5階級制覇を成し遂げたボクサー・メイウェザーの名言にこんなのがあります。

「お前が休んでいる時、俺は練習している。お前が寝ている時、俺は練習している。お前が練習している時、もちろん俺は練習している」

メイウェザーはいつ休んでるんだろう?それは置いといて、僕は毎日短歌を詠み歌人として一歩一歩を着実に進んでいます。ところがどうでしょう、啄木は墓でスヤスヤ眠っているのです。なんともう目が覚めることはありません。お前が死んでいるとき、俺は練習している。啄木が永遠に休んでいる間、僕は短歌を詠み続けるのです。

ここまで言いましたが、僕は啄木を尊敬しているし嫉妬しています。たとえどんなに僕が名を馳せようと啄木が僕の存在に気づき嫉妬することは永遠にありません。もし彼の函館の墓に寄る機会があったら、墓前で歌を詠んであげることにします。

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