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歌詞を読みすぎる問題をもっと話したい

音楽の楽曲の歌詞をみんな深く追求しすぎるというような問題が、話題だ。元は去年テレビ番組でロックバンド、ザ・クロマニヨンズの甲本ヒロト氏がした「(今の若い子は)歌詞を文字で追いすぎてる」という発言からで、最近でもユーチューバーである、みのミュージックも動画内で触れていた。

確かに歌詞の意味や物語を解読しようとする人がいると、私自身もよく思っている。というのはYoutube上で配信されているPV映像のコメント欄に、歌詞の意味を自分なりに分析する、いわゆる考察厨が非常に多い。(よく目にするため"厨"と書いているが、揶揄する意味ではないです)そしてその考察した文章に、多くいいねが付くことが多い。

私自身は、歌詞は無意味なものであって、答えや正解を求めるものではないと思っている。とはいえ私も歌詞を楽しむことが好きで、今は『ずっと真夜中でいいのに。』のアーティストを聞きながら、すごく意味がありそうで全くない、破綻したような文章の日本語の響きを楽しむのが好きだ。最新の楽曲「胸の煙」でもサビの歌詞はこうだ、"確かに きっと不確かに すぐに乱れていった"、矛盾した言葉を繰り返し言い続けている。でもこの曖昧な歌詞と、胸に響くリズミカルさがとても高揚する。意味なんか不要だ。

歌や作品は、見るものがそれを理解しようとするよりも、何を得るかが重要だと思う。作品からフィーリングを得て元気になったり、感動したりすること、それが見る側に大切だ。作品の背景や、その意味を知らないことをあざ笑う者にだけはなりたくない。それはすごく小さい豆知識にしか過ぎないと思うからだ。フィーリングと書いて難しく感じるけど、一番わかりやすい例が「お笑い芸人」だと思う。芸人のギャグや漫才で笑って=元気になった、単純明快だ。漫才のバカバカしい会話の言葉に、その意味を求めるのはナンセンスだ。歌も同じだと思う。

歌詞の意味を知ろうとするのは、好きの気持ちだからもあると思う。誰だって本気で好きになった人のことを知り尽くしたいものだし、アーティストに対しても同じだ。

だけど「好き」だと思うだけではやや思考停止で、その「好き」を身に活かすことが、作品やアーティストに対する一番の謝意だと思う。歌からもらったエネルギーを活かし、自分もハッピーになった、頑張っていこう、変わっていこう、前向きに生きていこう、オーディエンスたちが皆そうなっていったら作り手にとって最も冥利に尽きるものだと思います。

解読も楽しいと思うけど、もっと歌のエネルギーを受けたほうがいい、それが私の意見だけど、世間はどうなんだろう。そう思った。

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