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ぷー日記:6月3日 "生きづらい"人生


思い出せないこと

「おとうさんの絵をかいてください。」
幼稚園の時、授業でこんな課題が出た。
わたしは3人きょうだいの末っ子だったので、学校で何が起こるかというのを前もって知ることができた。予め練習ができたから、いろんなことをそつなくこなせる一方で「はじめてのこと」にはめっぽう弱かった。

おとうさんのかおをかく?

5歳のわたしはお父さんの顔を「どうしたら」描けるのかが真剣にわからなかった。不意に出された難題にわたしは大いに戸惑いながらも、おそるおそる大きな丸の中に小さな丸を6個ほど描いて提出した。すると先生は言った。
「もっとまじめにやりなさい!」

怒った先生の顔は今も鮮明に覚えている。その一方でその後どうしたのか記憶がない。あんな強烈な出来事の一部だけが、くり抜くみたいにスッポリと。
わたしはその場で泣いたのだろうか。先生に謝ったのだろうか。とにかく「怖かった」ことしか覚えていない。

わたしは些細なことを500倍くらいに受けてしまう性格なので、「マロちゃんこれはダメよ。せめて黒目描かなきゃ。」くらいだったかもしれない先生からの注意を、死刑宣告ぐらいに受け止めてしまったのかもしれない。
当時20代半ばだった彼女を責めるつもりはない。前例のないことや、人に叱られることをわたしが異常に恐れるのがこの時から始まったという証拠なんかない。

ともあれ現在、わたしにとって「"いいね"の不在」は「ダメだね」と同じことであり、「ダメだね」は「あなたは人間失格だ」に等しい。

デフォルト"生きづらい"

会社には勤めたくない。
ひとりで仕事がしたい。
自由に動きたい。

これらについて「いいね」という人は周りにいない。なのでわたしはそれを「ダメ」と認識する。人間失格になるのは良くないことだ。

皆会社で働くのだから。
皆自由になりたいけれど、そうはゆかないのが当たり前なのだから。
人生は辛いのが当たり前。皆、そう。

朝の連ドラではないが、・・・はて?
それでは、デフォルト「生きづらい」は、当たり前かしら。
人生に苦しむのは当たり前かしら。

組織がすきな人もいる。経理がすきな人も、営業がすきな人もいる。そんな人たちが会社を創ることや組織で働くことは理に適っている。その人たちは、「すきな環境」に身を置けているのではないのか。
なぜ、「そうでない人」も同じでないといけないのだろう。
・・・はて?
「苦しいこと」と「苦しむこと」は同じかしら。

アンビバレンツ

わたしの人生を振り返ると、だいたい「生きづらい」。
怒る人や機嫌が悪い人はこわい。ただ怖いのでなく体調を壊すくらい怖い。
意見が分かれた時にじぶんの意見を通すのは疲れる。ただ疲れるのではなく、意見を言うのに何時間も使い、翌日丸一日寝てしまうくらい疲れる。

みんなできるのに、どうしてわたしはできないのかしら。

就職に踏み出せず全てが恐ろしく感じる今、ふと幼稚園で先生に怒られた時の記憶の一部だけが欠けているのを思い出した。「おとうさんのかお」が描けなかったのは、あるいは「"おとうさんのかお"を描いて叱られた」のはわたしだけだった。
「今ここにいないから描けないモン。。。」
と思ったことを言ってもよかったのに。それはそれで先生を笑わせたろう。

ところで、そんな自信のないわたしの中に、実はもうひとつ全く相反する信念みたいなものが、身を潜めながらもどっしりと腰を据えている。

だれかができるなら、それがわたしでもいいじゃない?

だから皆が無理だと言った外国語を使う仕事に就いた。それと同時に、皆がしている集団で働くことに疲弊してしまう自分を責めた。

専業主婦モドキの自分を責め続けて数ヶ月にしてふと思う。
だれかが「すきな環境」に身を置けるなら、それはわたしでもいいんじゃない?

「わたしのしたい形」で仕事がしたい。
そう思っても、いいんじゃないだろうか。
苦しい道かもしれないけれど、それで自分を苦しめなくてよいのなら。

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