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ぷー日記:5月30日 母のきもち

母はよく「なんかおいしいものが食べたいワ。」と言った。そして、グルメ番組を嫌った。「食べれもしないもの見たくない。」と。
母は、父が仕事帰りにする「こんなうまいモン食ってきた」話を嫌った。
その度わたしは、楽しい時間を過ごしてきたのだから、喜んであげればいいのに。と思って眺めていた。

父は「昔ながら」の料理屋を好んだ。いわゆるおじさんたちが入る食堂だ。
母は、そこへ行くのは嫌だと常々わたしにぼやいていた。
その度わたしは、お母さんはかっこつけだな。と思い、夫婦ふたりで時間を過ごそうと提案する父をかわいそうに思った。

一方で父は、おしゃれなお店に行くのを嫌がった。
母が連れて行けば「こんなもの、うちで作れば千円もしない。」と言っては空気を重くした。
きれいな服を着て、うきうきとして出かけるのにションボリ帰ってくる母を気の毒に思った。ただ、わたしもいつもの食堂の方がすきだな、と思った。
母がどんなきもちだったのか、わたしにはわからなかった。

わたしは母が大好きだが、母とは違うと思っていた。
ひとりでサラリーマンにまじってラーメンを食べるのじぶんはかっこいいと思ったし、パートナーとおしゃれなレストランに行かなくても全然かまわなかった。むしろ気を使うからそんなところは苦手だった。
「わたしはお母さんみたいにかっこつけじゃない」、そう思っていた。

けれど、今は母の気持ちが少しわかる気がする。
ひっきりなしにやってくる家事をこなす。1日は片付けで始まって片付けで終わる。どんなに隅々まで掃除をしても、どんなにおいしいご飯を作っても、月末に入ってくるお金はない。あるいは「夫からお金をもらうから家事をさせてもらう」と理解するべきなのか。
仮にそうだとして、この仕事はなかなかどうして非道くむなしい。

"がんばったから、たまにはおしゃれなレストランでいい気分に。"
社会と隔絶されていた母の気持ちは、こんなところだったのではないか。
そんな中で聞く、父の「うまいもん食ってきた」話や、たばこで濛々とした食堂での食事は、さぞやしょっぱかっただろう。

仕事を辞めたら、あんなにすきだったビールを買わなくなった。「仕事もしていないくせに」、と思ってしまうのだ。「仕事でこんな人に会った」というパートナーの話を、上手に聞いてあげられなくなってしまった。「あなたは仕事があっていいわね」という声がどうしても頭をもたげてしまうのだ。

先日、ふたりで町の中華料理屋さんへ行った。お客さんは皆男の人で、お店のおばちゃんは、"街のお母さん"といった感じだった。ごはんはおいしかったのに、「家でも作れるから、きれいなテーブルで食べたかったなぁ。」なんて思ってしまった。じぶんがひどく嫌な人間に思うと同時に、母の「なんかおいしいものが食べたいワ」が思い出された。

社会人は、労働の対価に給料を得る。
主婦は、家事という労働をするが、その仕事はお金を生まない。
お金を払うのは彼だ。社会で働いているのは彼だ。
お金を払ったのは父だ。社会で働いたのは彼だ。
わたしたちの労働は、お金を生まない。

社会に出ていないことは"悪"ではないだろうに、この劣等感と虚無感はなんだろう。社会に出ている夫なりパートナーなりに感謝をするべきなのに。

最近、転勤妻に関するドキュメンタリーを見た。夫の仕事でキャリアを捨てて知らない町にやってくる妻たち。「いつ転勤になるともわからないから就職に踏み出せない。知らない町で、話をするのはスーパーのレジでだけ。」そんなことを言っている女性をつい食い入るように見てしまった。

くっそーじぶんのお金でじぶんの好きなビール買ってじぶんの好きな時に飲みたーっ!

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