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ハイヒール (小話)

 その昔、テキスト創作界隈で流行った文化に「○○さんに○○のお題」というものがありました。

 例えば、文字書きさんに100のお題。創作意欲を刺激されるようなキーワードがいっぱいで、何個か挑戦させて頂いていましたが、もう配布元のサイトさんもなくなってしまった様で残念です。

 久しぶりに思い出したので、昔書いたものの中から、差しさわりのなさそうなものを何本か救済しようかと思います。


081:ハイヒール



 久しぶりに二人で飲んだ帰り、夜道を歩きながら彼が言った。
「お前、アキレス腱、きれいだな」
 はあ? と私は笑った。酔ってるでしょ、と言うと悪びれる様子もなくうんと返す。
 でも、酔っていたとしてもお世辞を言うような人ではないから、素直に嬉しがることにした。
「アキレス腱、きれいなのか私」
 なんだかよく分からないけれど、きれいなことはいいことだ。
「あれだな、その靴がいいんだな」と彼は私のオレンジ色のミュールを指して言う。「ミュールっていうんだよ」と言おうとして、やめた。どうせすぐ忘れてしまうだろうし、彼が生きていく上でこの言葉が必要になる場面はないだろうと思ったからだ。
「足首に力入って、アキレス腱が浮き出てるとこがいい」
 うんうん、なんて大袈裟に頷きながら、彼は私より歩調を少し緩め、二、三歩後を歩く。
「女のアキレス腱が好きなんて、フェチっぽいね」
「女の、なんて言ってねえだろ」
「男も好きなんだ」
「ばか。お前の、つってんだ」
「はあ」
 恋人でもない男から、「アキレス腱が好きだ。でも好きなのはお前のアキレス腱だけだ」と言われても、反応に困る。悪意ではないだろうが、好意だとしても「そうですか、それで?」としか言い様がない。
「うーんと、あんたも、その、いいよ。襟足のとことか。きれいだと思う」
 こちらもなにか返さないといけないような気がしてきて、私は思ってもないことを言った。アキレス腱くらいどうでもいいパーツ、と探して目についたのが襟足だった。言ったあとからよく見ると、あながち嘘じゃない。いつもより少し伸びたまっすぐな黒髪が、ぬるい夏の風になびいている。うなじのチラリズムがなかなかいい。
「ばかじゃねえの」
 彼は、私の突拍子もない発言にしばらくぼんやりしていた。やがて笑いを含んだ声でそう言うと、立ち止まった私を追いこしていく。
「そういう、かかとの高い靴はいてさ」
 ミュールっていうんだよ。私はまた彼の後ろ姿に心の中でそっと注釈を入れる。
「坂道とか階段でよろけたりしながら、でもがんばって、アキレス腱浮き出してるのが、いいよ、お前は」
「うん?」
 やっぱり、彼の言わんとすることがいまいち分からない。
 分からないままその夜はさよならした。乗り換えの駅まで送ってくれて、じゃあまた、と手を振って別れた。酔った足元はハイヒールのせいだけじゃなくて不安定で、ホームへの階段を一歩一歩踏みしめながら、昇った。
 アキレス腱は浮き出ているだろうか、と彼の言葉を少し思い出した。





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