JOKERを観て *ネタバレあり

観てきました。公開前から楽しみにしていて、でも初日にある設定を耳にして、観るのが少し怖くなった映画。

主人公アーサーはある障害を持っている。脳の神経性の障害。恐らくトゥレット症候群だろう。

自分の意思とは関係なく笑ってしまう。

笑ってはいけないと思えば思うほど抑えられなくなる。本人はとても苦しそう。

映画を観る前にこの設定を知って怖くなったのは、私の身近な者にもこれに似た特性があるから。

チック症と言ったりもする。

軽く鼻歌のようなものが出る程度で、アーサーのように日常生活に支障をきたす症状ではないので、ここでは深く触れないけれど、とにかくこの設定は私には「他人事ではない」ものだった。

アーサーがジョーカーとして残忍な殺人鬼になる結末は分かっている。

ジョーカーは生まれついての悪ではない。一人の孤独な男が悪に堕ちるまでの物語だ。

客観的に観られるだろうか?それが不安の要因だった。


結論から言ってそれは杞憂に終わった。純粋に映画として満喫した。

アーサーは生まれついての悪人ではなかった。心優しく、不幸な身の上で、理不尽な世間に振り回され、裏切られて、ジョーカーとして目覚めてしまった。

それはフィクションでありながら、どこにでもあり得る物語であり、誰もがジョーカーになり得るけれど、当然同じ身の上の者がすべてジョーカーになるわけもない。

たまたまアーサーには、トゥレット症候群というハードルが設けられたけれど、それはただの舞台装置にすぎません。

この映画でその障害に対する差別が拡がるとか、犯罪者を美化している、擁護しているという声があるかもしれない。影響は多かれ少なかれあるかもしれない。それでも描きたかった意欲が伝わってきました。

誰しもアーサーであり、誰しもジョーカーにはならない。

作中で彼は言っていました。

すべては主観だと。

正義も悪もすべて誰かの主観によって決まる。その通りだと思う。

地下鉄で最初に殺された3人の青年たち。彼らの家族の視点で描かれた映画なら、アーサーは悪でしかない。

アーサーの物語を知っている私にとっては、アーサーは私。アーサーは私の家族。アーサーは私の隣人。誰でもアーサーになり得る存在。

誰でもアーサーになり得るとは思いつつも、絶対にならないとも思う。

アーサーよりは幸福だ。アーサーよりは恵まれている。アーサーほどは、純粋じゃない。

だから安心したし、客観的に見られた。

ごめんねアーサー。


衝撃的なストーリーだけでなく、映画的な演出にも魅せられた。

メイクをしたアーサーが踊るシーン。色彩。光彩。美しくて見惚れてしまった。

同じアパートに住む美女との時間が、すべて妄想だったと明かされた時の鮮やかな裏切り。鳥肌が立った。

ラストシーン。

踊るように廊下を歩いていく。足跡は血に染まっている。陽気な音楽はまるで喜劇のよう。古き良き時代の映画を彷彿とさせる。

フォントも美しい。

殺人犯を美化していると批判されることなど百も承知で、ジョーカーという、どうしようもなく人の心を惹きつけるヴィランを描き切っていると感じた。

好きか嫌いかでは言えない。

ただ心には強く残る映画であるのは確か。

また改めてダークナイトが観たくなった。







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