年齢観革命が進んでいる。

アイデンティティの中心は年齢である
 ロラン・バルトというフランスの思想家の短いエッセイ。『老人ノゴトキ子供、子供ノゴトキ老人』を読み直してみる。邦訳でたった4ページの短い走り書きだ。本来は、講義の抜粋であったらしい。
 書き出しはこうだ。

「幼児、子供、少年、青年、壮年、老年。いかなる社会も、人間の時間を分割して考える。そして世代というものを作りだし、分類し、名前をつけて、その構造を成人式や兵役義務や法規といった方法で社会的機能に結びつける。」

 家を一歩出て、何かしようとすると、年齢と紐づけられる。
 ちいさな子供と出会うと、人はまず手始めに「おいくつ?」とたずねる。
 コンビニでお酒を買おうとすると、成人かどうかをたずねられる。病院で診察を受ける前に、名前と生年月日を聞かれる。健康保険の自己負担は年齢によってちがう。
 年齢不詳のAさんは、この世界でいかなるサービスも社会関係も獲得できない。年齢不詳とは、戸籍を持たないことを意味する。公式には存在しない人間、ということになる。
 年齢をアイデンティティの中心に据えると言うことは、人のアイデンティティは年々に変化する、ということだ。
 化粧品会社は、年齢とともに推移する肌を、アイデンティティの本質的な変化であるかのように語る。歳をとるとともに就業も難しくなる。借金もしにくくなる。新しい人間関係も結びにくくなり、都心の最先端の店舗では客扱いも期待できなくなる。さらに年を経ると、ついにはまともな敬語すら使われなくなる。
 社会から尊敬される年齢のピークは何歳くらいだろうか。最近では人生の華は20歳代、それを過ぎると男女ともに30歳くらいをピークに下り坂にさしかかる。情報リテラシーのピークを、新しいIT環境に合わせる能力のピークと考えると、そのくらいが能力の頂点のように思えるからだ。
 そうなると、平均寿命を80年と考えて、残りの50年は衰えつづけるだけ、ということになる。いまの若い人は無残なライフコースをたどることよう強いられている。
 もっとひらく表現すれば、10代イキキ、20代ハツラツ、30代バリバリ、40代ジタバタ、50代ダラダラ、60代オメオメ、70代以後シオシオ、というような感じだ。

年齢無視のアナーキズム
 こういう年齢的階級感を否定することは、社会的無秩序につながる、とバルトは言う。
はっきりせず未分化で逆戻りのできる年齢、つまり特定できない年齢ほど大きな社会的無秩序を引き起こすものはない。
 老人が年齢を偽って若者の振りをしたり、成人男性が子供の振りをしたり、ということつまり人間の役割を自由に交換してしまうことは社会の仕組みをひっくり返す行為だ、とバルトは指摘する。
 といってもバルトはSNSなどでよくある年齢詐称のような詐欺行為をいっているのではない。
 80歳の男性が、『自分は永遠の若者、いつまでも歳なんかとらない』と宣言してエベレストからスキーで滑走したり、衆議院選挙に立候補したり、インディ・ジョーンズ第五作に主演したり、マサチューセッツ工科大学に入学申請したり、プロ野球の合同トライアウトに挑戦したり、ジャニーズの新人オーディションを受けようとしたりするのは個人の自由だ。
 けれど社会が、年齢別の役割分担を一切無視して、全員おなじ生まれてから死ぬまでおなじ役割を振り当てる、としたら、世の中ひっくり返ってしまうだろう、というのだ。

社会制度の根幹としての年齢 
 社会の制度において、年齢区別、年齢差別があることは否定できない。雇用対策法は「募集・採用における年齢制限禁止」をうたっている。
求人票は年齢不問としながらも、年齢を理由に応募を断ったり、書類選考や面接で年齢を理由に採否を決定する行為は法の規定に反します。
厚生労働省は、高らかにうたいあげている。とはいうものの、雇用側には不採用の理由を開示する義務もない。「あんた歳が行きすぎてたから採用しないよ」などと口が避けれもいわなければよいだけなのだ。
 けれど本気で、年齢不問で採用せよ、と言うことになると、履歴書から年齢欄を取り除き、直接面接や顔写真添付を禁止して、ネット上のチャットだけで採用を決めろ、というようなことになってしまう。学歴を書くのはよいが卒業年次を記入することも禁止。経歴欄には日付記載禁止、ということになる。

高齢者優位時代の終焉
 かつては年齢制限はむしろ逆転していた。たとえば大企業の正社員の報酬は、新入社員が1とすれば50歳代の役職者はその5倍をもらっていた。むかしは不公平だった、と思う人がいるかも知れないが、かつて昭和30年代の50歳代は子供4人を養って食費に学費、つぎつぎ出てくる家電や家具の購入に追われていた。持ち家率も低く、相続資産は少なかった。
 いっぽうで、仕事には知識と経験がものをいった。知恵とは知識と経験に裏打ちされた発想のことを示していた。インターネットが存在せず、知識のデータベースが世界大百科事典と広辞苑ない社会では、個々の人間がデータベースだった。ビジネスの大先輩は、新入社員には仰ぎ見るほかない存在だった。
 テレビから『水戸黄門』が消えたのは2011年のことだ。そのころにはまだ知恵と経験の権化のような年寄りがいた。
 一例を挙げよう。京セラの創立者だった稲盛和夫さんは、2010年に窮地に陥った日本航空の再建を依頼され、会長に就任した。このとき78歳だった。二年後の2012年に再建を果たし日本航空は東証一部に再上場、さすがは稲盛さんと世間をうならせた。81歳で会長を退任された。
 同じ頃にビジネスを隠退した世界的経営者に、マイクロソフトのビル・ゲイツがいる。2008年にゲイツは一線の実務から身を退いた。55歳だった。
 
老人よ、若者を敬え!
 つい最近まで、日本にも『尊敬され、そのことばに世間が耳を傾ける老人』が大勢いた。高齢者に敬語で接していた。稲盛和夫さんはそういう世代の最後のひとりだった。松下幸之助さんや土光敏夫さん、弁護士の中坊公平さんといった老いてますます盛んな高齢者がいっぱいいた。そう言う人がいなくなった。
 同時に、テレビドラマ『水戸黄門』が打ち切りになった。「年寄りを敬う」というコンセプトが神話になってしまったからだ。
 かわって老害ということば浸透してきた。
 これは年齢観革命、といってもよいかもしれない。「失われた20年」と呼ばれる日本経済の低迷期に、この革命は進行してきた。失われた20年はさらに延長戦を重ねている。
 理由はいくらでも挙げられる。
・デジタル化が進展して、高齢者にはついていけない時代になった。
・グローバル化が進展して、高齢者はついていけない時代になった。
・少子化が進行して生産年齢人口(15歳から65歳)が減少した。
 もはや老人を敬え、などというのは水戸黄門ごっこの悪ふざけの世界の話になりつつある。
 電車で席をゆずるべき相手は、老人ではなく貴重な生産年齢のみなさまだ。
「お疲れの働き手のみなさまに席をお譲りいたしましょう」というアナウンスが山手線で聞かれる日も遠くないだろう。

 問題は、現在の高齢者が、高齢者優位時代に育ち、人生を過ごしてきて、高齢者劣位時代に投げ込まれたことにある。そのうち年寄りをコロセウムで戦わせる時代が来るかも知れない。

引用は、*ロラン・バルト著作集10、2003年、みすず書房、,p32


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