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果てしなく遠い場所と余白

 果てしなく遠い場所に行ったとき、自分は自分だと痛感する。

 8月13日から16日の4日間、旅行をした。場所は東京から岡山、松江、高松、小豆島とせわしなく動いた。「人に会いたい」その一心で、インターネットで知り合った友人4人に会いにいく旅だった。

 旅の最終日、高松空港で夕焼けを見つめる。もし飛行機を使わなければ、自分の身体しか使えない徒歩や自転車だったら何日かかるのだろうと想像する。果てしなく遠い場所で思うことは「自分は自分」ということだった。旅に出れば自分でなくなる気がしても「どこに行っても自分は自分」。この言葉の事実を現実として背負わされる。2Lのペットボトルが入っているリュックのように。

 旅行を除いてもこの八月はとても忙しかった。横浜まで好きな本の作家に会いに行き、好きなアニメのフェスに参加し、通っている地活の事業報告会を聴き、短歌の会を開き、自分のラジオに加えて皆でラジオを収録したいと思って声をかけ、母が高熱を出し、飲み会でビールと日本酒を飲み…今日は一緒に本を作る友人との打ち合わせだ。

 こんなに忙しいのにも関わらず、私はふわふわとしている。私ってなんなんだろう。自分とはなんなのだろう。本当は何がしたいんだろう。本当にやりたいことに向き合えているのだろうか。自問自答を繰り返している。日常では何も気にしていない体を装っているのに、朝起きた瞬間や昼休みのふとした隙間、帰り道の夕暮れを見ては考える。

 充実している風な日々の中で、まだ余白があると焦っている。何かで埋めないといけない気がする。その余白との向き合い方が生き方なのだろう。私を形作るものは「私でないものたち」であり、周囲の誰かであり、空間であり、余白だ。何もしない場所や時間に不安を抱かなくなってはじめて、私は私と向き合えると思う。

 掴みどころのない自分はどこに行っても変わらない。ただ言えることは、高松空港から見たあの夕焼けは間違いなく綺麗だった。

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