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「自分が今この瞬間いなくなったとして、ぽっかりとあいたその場所には何が残るだろう」

 「自分が今この瞬間いなくなったとして、ぽっかりとあいたその場所には何が残るだろう」と考えることがある。物理的な話ではなく、象徴としての「自分」とは何だろうか。統合ウサギという名前で活動しているから「ウサギ」という安直な話ではないのだと思う。

 思い出として誰かを振り返る。よく見ていた正面の顔よりも背中を思い出す人がいる。人によって思い出すモノや五感が異なる。横顔だったり、やわらかいまなざしだったり、きれいな手の甲だったり、セルフレームの黒いメガネ、赤いチェックのマフラー、ちょっと安っぽい香水の甘い匂い、ソプラノの歌声、ふとかけてくれた言葉、美術の時間に描いていた夕焼けの版画、化学だけやたらテストの点数が高かったアイツ……美しいこともあれば、変なことで覚えていたりする。

 「印象」と一言でまとめてしまうこともできるそれは、対象によって決まることもあれば、立場によって決まることもある。その対象である人と印象を抱く人の関係性で決まる。

 他人の印象で自分自身を決めつけることは危険だ。とはいえ、人は人を介して自分を知る面も持ち合わせている。誰かと手を繋ぐことで、はじめて「自分の手があたたかい」と気が付く。「そのあたたかさを誰かに分けることができる」ということにも気が付くかもしれない。一人の世界では見えなかったことを見ることができる。

 「自分のいた場所に何が残るか」という問いに答えはないけれど、できればあたたかくてやわらかい、ほわほわしたものだといいと思う。

 それってウサギじゃないか。結局、ウサギが残るみたいです。

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