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大晦日の珍客

寒さが肌を刺す大晦日。
彼女は駅までの小路を歩いていた。
早く着いちゃうかな。
腕時計を見ると、映画の時間にはまだ随分と余裕があった。

それにしても、今日はなんていい天気。
彼女は深く息を吸って、冷たい空気を顔いっぱい浴びてみる。
撫でるように吹く風に揺られて歩いてみたりする。


「ねえ、そこの君」
声がしたのはその時だった。
振り返ると誰もいない。
「ねえ、こっちこっち」
声の主を探して辺りを見回すと、足元の小さなネズミと目が合った。

「緊急、緊急。一大事なんだ。手を貸してくれない?」
彼女は膝を折ってその小さな生き物を覗き込んだ。
「どうしたの?」
彼女が聞くと、ネズミはぱっと彼女の腕に飛び乗った。「イエスってことでいいのかな?」
答える間もなくネズミは言った。
「よし、付いて来て!」
途端、グンと何かに引っ張られるような感覚が彼女を襲い、次の瞬間、小路には彼女もネズミも忽然と姿を消していたのだった。


「ここはどこ?」
彼女が目を開けると、そこは空のように下方には地上の街が見えており、けれども水の中のような重みと水の感触があり、そして辺りには木々や草花が生え、その間を大小様々な生き物達が泳ぎ回っていた。
息は出来るが、その度ぽこぽこと口から泡が出る。
「”空の海の森”だよ」

ネズミは答えると、その小さな手で彼女の指を握って言った。

「僕はこれから神さまの元へ行って、年を明けるお役目なんだ。そのためには神さまの錫杖が必要なんだけど、それを持ってる奴がちっとも来ないんだよ。そこで悪いんだけど、この森の中から彼を探して錫杖を持ってきてくれないかな。お礼はするよ、なんだって君の好きなものをあげるから」

「どうして私なの?」
彼女が聞くと、ネズミはその手に力を込めた。
「上から君が歩いているのを見てたんだけど、君はきっとこの森を泳ぐのが上手だと思う。それになにより君は… 僕より大きい」

なるほど、確かに大きい。
彼女は笑って言った。
「いいよ。じゃあ待っててね」
「ありがとう。錫杖は4尺4寸。持ってる奴は大きな牙の猪だ」
ネズミはそう言って彼女の指を離すと、そっと前に押し出した。


空の海の森は、走るように泳げる。
彼女は手で水を掻き、足は前後に動かしながら右往左往、猪の姿を探した。
不思議なのは、森の上下が度々反転すること。
前に進んでいると、視界がやがて傾いてきて、いつの間にやら風景が全て逆さまに見えている。
その度彼女は身体をぐるりと一回転させる必要があった。
「このままじゃ酔っちゃいそう」
そこで彼女はそこらにある岩を足場にして、ぴょんぴょんと岩から岩へ飛ぶように移動してみた。
これなら、回転にも自然と身体が付いていきそうだ。

もう一つ不思議なのは、森の生き物達だった。
五つの目玉と長い舌を持つミミズのような生き物や、エビのような手を持ち複数のヒレを靡かせながら移動するもの。かと思えば恐竜もいたし、トンボや魚など馴染み深い生き物もいた。それらは小さくなったり大きくなったりしながら、森の中を泳いでいた。
彼女は楽しくなってきて、鼻唄を歌いながら生き物達の間をすり抜けていった。


まもなく猪は見つかった。
黒々とした毛と大きな牙。錫杖は背中に赤い紐で括ってある。
「ネズミの遣いか。かたじけない」
猪は野太い声でそう言って頭を垂れる。
「足を挫いてしまってな」
みると猪の左後ろ足は変な方向に曲がっていた。

彼女は猪の両手を取り、引っ張った。
「うん、なんとかいけそう」
「すまないなあ」
二人は両手を繋いで泳ぎ出した。
それはまるでダンスでも踊っているかのよう。
生き物達も、物珍しげに二人を追いかけ踊っていた。


「大勢で戻ってくるから、何事かと思ったよ」
無事に帰るとネズミは嬉々として言った。
「ありがとう。これで無事に年が明けられる」
シャンシャンと受け取った錫杖をネズミが鳴らす。
すると森の一箇所にぽっかりと穴が空いた。
その先には、あの小路。
どうやらここが帰り道。

「大晦日の忙しい時に申し訳なかったね」
猪が言い、彼女はその言葉に、あっと気がついた。
「大変、映画を観に行く途中なの」
彼女は慌てて穴に向かって泳ぎだす。

「待って。御礼をあげなきゃ。何がいい?なんでも君の好きなものをあげるよ」
ネズミは急いで言ったが彼女は気にもかけない。

「それどころじゃないのよ。映画、映画に遅れちゃうの。
御礼は要らないわ。それじゃあ、さよなら」
そう言うと、ぽんっと迷わず穴に飛び込んで行ってしまった。


あとにはネズミと猪がぽつん。

「それどころじゃない、だって」
「あんな人間、初めてだね」
二人は顔を見合わせ、やがて高らかに笑った。穴の先には、くるくると小径へ向かう彼女の姿。
「なんて上等な泳ぎなんだろう」
ネズミはうっとりと言った。



そうして無事に、今年も年が明けたのだった。
さあて、どんな年になるのだろう。




special thanks ---
このお話は、水無月さんをモデルに描かせていただきました。
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