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#3 理想の平和な世の中は戦争がないと創れない?ユートピア論を漢詩で学ぼう【漢文から学ぶ】

いつだったか『五分後の世界』の書評で、アンダーグラウンドという架空の世界を紹介したけど、あれはある意味ユートピア(理想郷)だと思う。

確かに戦争世界という嫌な世の中だけど、人々は生きるために、自分の誇りをもって戦っている。

何もない中で生きるということで、命の大切さを理解しているのだろう。そして何もないからこそ、音楽や芸術などに熱狂的になるほど心を動かされる。

ある意味現代の日本にはない感覚だろう。

よく理想郷に現実逃避したいという人はいるけど、完璧な現実逃避なんてない。

生きてればいつかは現実を見せられる。はー、やだやだ。

でも、そんな理想的な社会を見ること、いやつくることができたらどうなるだろう?

今回は陶淵明(365-427)という東晋から宋代の隠逸詩人の漢詩をもとに紐解いていこう。


ちなみに、今回紹介するユートピア、および桃源郷は以下の意味で用いる。

ユートピア(Utopian)…現実の社会に不満をもつ人が夢想する理想的な楽土。理想郷。トマス・モアの小説の題名による。「無何有郷(むかうのさと)」と訳した。(岩波国語辞典第8版)
桃源…俗世を離れた別世界「―郷」。陶淵明(とうえんめい)の「桃花源記」に書かれた理想郷から(岩波国語辞典第8版)

あらすじ

とりあえず、今回の「桃花源記」の本文はwikibooksを見てほしい。結構有名だし今は高校でもやった人もいるのではないかな↓

晋代にある漁師が谷川に行くと、美しい桃の花がたくさん咲いているのを発見。桃林をたどってみると狭い山間に"同じ中国人"が、楽しげに住んでいた。そこの住民たちは漁師をもてなしてくれた。彼らは秦の戦乱から逃げて、少数の人々で外の世界から隔絶して平穏に過ごすことにしたという。平穏でのんびりしているこの場所の人々は、外の世界のことを知らず漢代以降の時代のことすら知らなかった。
漁師は帰ってから再度その桃源郷に行こうとした。ところが目印をつけて戻ってきたのにその桃源郷はどこにもない。捜す人は多かったがそんな人はもう誰もいなくなってしまった。突然現れた桃源郷は突然姿を消してしまいました。という話。

これが果たして桃源郷といえるのかは置いといて、神秘的に出現し、神秘的に姿を消した不思議な異界であった。

理想郷の夢は災厄になる?

要はこれは平和を求める人々の暮らし方の願望といえよう。戦争やのんびり暮らす。

陶淵明は下級ながら官僚であったが、欺瞞や悪がはびこる"豊かな生活"を捨てて貧乏な田舎に移住して農家生活を始めた。

もうそこでは政治に煩わされることはなく、農家になって貧乏を享受する喜びをかみしめていた。(官僚への未練はあったというが…それはまた機会があれば記事にしたい)


作中の漁師に限らず、今の自分の生きる世の中とは異なる理想郷というものを夢見た人は多いと思う。

ではもし実際にそんな理想郷を創るとしたら。

一人二人だと限界があるし、見ず知らずの人とともに理想郷をみんなで作ろうといっても、多すぎると出来るわけがない。多くても仲間内の数十人が限度だろうか。

しかも、仮にそんな世界を創れたとしてもいつかはこのように他人に知られてしまうのだから、現実的に見ればこういう小国寡民の国家はほかに侵略されないように、圧倒的な軍事力を持たないといけない。

それはつまり、法家的思想、もっと言えば秦のような専制思想につながる。

確かに戦争がずっと続いていた時代では、道徳を持てと言われるくらい思いやりのかけらもなく争いは続いていたが、諸子百家のように自由な意見は言うことができた。

道徳で国を治めるという理想国家は現れず、結局秦のような軍事力がある強国が支配することになった。

その秦も法律含めて皇帝の権力が強すぎて、知識人を排除する恐怖政治を行い、また人を思いやることができずにすぐに滅亡。

その後の漢代には儒教を国教化して道徳で治める国家を目指し、では理想的な国家になったかというと…まあ理想国家になるわけないよね。

残念ながら漢代でさえ法律や老荘思想がふんだんに盛り込まれている。

現代までずっと法律、さらには軍事力でものを言わす世界になっている。

現代で言うと、新たな恐ろしい兵器によって守られる社会、いわゆる「核の傘」である。

核兵器を持つことによって核兵器を持たせず、「攻撃するな」と威嚇し続けることで、自分たちの世界だけは平和が保たれる…なんという皮肉だろう。


嫌だといってもそれが現実。なぜなら一番簡単に生きられるから。

現代の日常の仕事面でも、フリーランスなど自由業の促進とか地方移住とか昔より整いつつあるとはいえ、結局都市部で会社勤めしてる人がたくさんいるのは、その生き方が一番楽だからだろう。


そういえば北センチネル島という少数民族が原始的な文化を続けている地域では、上陸した人を民族じゃないとして皆殺しにしているから文明も外交も何もないとか聞いたことがあるな…

これもよそ者が見ると恐ろしい地域だが(インドが立ち入り禁止としている)、ある意味これもユートピアといえるかもしれないし、どんな他者を排除する狂気というか恐ろしさがないとユートピアは生まれないのかもしれない。

ユートピアはあなたの心が創る

せっかくいい夢を見たのに現実に戻すなと思われたかもしれないが、それは違う。フィクションだからこそいいのだ。

理想論はあくまで理想であるから素晴らしいのだ。

実際に理想となるものを創るには何か犠牲が生じる。隣の芝生は青く見えるということわざの通り、いくら理想を積み重ねても永遠に満足いくことは実際できないだろう。

もしかしたら桃花源記の続編が出たら、登場人物でも豊かな生活に嫌気がさすかもしれない。

ユートピアを実際に作ろうという熱意は災厄を生みかねない。実際に作ろうとしてもそれは実現できないだろうから、私たちはその想いはあくまで心の中にとどめておくべきなのだろう。

陶淵明は、官僚だったのに(失脚とかではなく)貧乏な農家になることを選んだ。

初期は慣れない環境だとか人づきあいの難しさだとか残る官僚の未練など、色々思う所はあったとは死を見ても一目瞭然だが、それでも彼は農家として最期には幸せになれたといえるんじゃないかな。機会があれば紹介したい。

このように、幸せのカタチは人それぞれで、自分自身で決めるものである。この作品からも示唆することができる。

たしかに高学歴ながらNPO団体に就職して、人のため町のために何かをし続けたいといって東北のド田舎に移住した友人もいたし、将来がどうなるか分からないのに文学大学院の博士課程(中国哲学の場合、博士課程まで行くと一般就職はほぼ不可能といわれている)まで行った人だっている。

繰り返すけど、幸せのカタチは人それぞれで、自分自身で決めるものだ。

他人がどうこう言おうとも、自分が幸せだと思えば幸せになれるし、愛だと思えばそれは愛に変わりない。そしてもちろん、いくら他人にうらやまれようと自分が不満足だったら…それは幸せにはなりえない。

隣の芝生は青く見える。だからこそ理想は自分の心の中にしまっておくべきだと私は思う。

陶淵明は大切なことを、漢詩の自分の感情を通して教えてくれた。

当たり前といえば当たり前のことをくどくど書いたが、自己啓発書なんかよりよっぽどいろいろなことを教えてくれる。やはり古典文学は偉大だ。

さあ、文学を読もう

思うに文学の素晴らしい点は、自由な発想ができることだと思う。

ユートピアは実際に作ることはできない。だが心の中にユートピアを作ることはできる。

ビジネス書と違って読むことで、作者と登場人物と自分だけの世界に入り込める。

友人によく、どうして本が好きなの?といわれるけど、何となくこういう発想ができる人が読書好きなんだろうなあと思う。

考えること(というか妄想w)好きだったらぜひ読んでみてほしい。自分の妄想が客観的な目線でできるようになるし。

妄想を現実的にさせるため読書してる… なんというか変態的思考だな。笑

陶淵明からは外れてしまったような鑑賞文になってしまったけど、文学の魅力は人それぞれだ。

この作品はほかにも読み方があるのでまた紹介したい。


ちなみに漢詩といえば、杜甫・李白・白居易などの唐詩が好きって人が多いけど、個人的には陶淵明がダントツで大好き。

官僚と農家を経験して、ここまでおっさん臭い文章を残す。素晴らしすぎる。

興味あったら是非読んでみてください。岩波の訳だけだとあれだから、解釈本は必須で。

ちなみに、私もトマス・モアのユートピアを読んでみようと思う。読んだ方いたらどんな作品か教えてください。

ちなみに、この作品を卒論にする可能性もあるので続編記事も出すかもしれない。笑

参考文献

・『桃源郷とユートピア――陶淵明の文学』 伊藤直哉 2010年春風社出版
・『陶淵明全集(下)』松枝茂雄・和田武司訳注 1990年岩波文庫出版

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