「わかりやすさ」の偏重、もうやめませんか

歴史を中心とした物書きをしている私が一番大切にしたいこと。

それは、「あまりにわかりやすくしすぎないこと」である。不審に思われるかもしれない。普通は、「わかりやすく説明できる」ことはライターの強みになるからだ。ちゃんと真意を説明しよう。

歴史関係の書籍やweb記事の仕事を受けるにあたって、何より求められるのは「わかりやすさ」だ。当然であろう。一般の読者にとって、歴史(ファンの多い戦国時代ならまだしも)はどうしてもとっつきにくい。とりわけ、なじみの薄い世界史は「わかりやすく」説明できる書き手が重宝される。

だが、「わかりやすく書けるライターです」と自己アピールすることには、内心強い抵抗がある。現実の世界は複雑で、「10分でわかる」「1冊でわかる」などと単純化できるものではない。

「わかりやすい解説」は、たいてい複雑なものを単純化して説明している。省略されたものが多ければ、見えなくなるものも多くなる。

私の著書「ニュースがわかる 図解東アジアの歴史」(SBビジュアル新書)の帯にも、「東アジアの歴史を動かした事件と人が、これ一冊ですべてわかる」と書いてある。

本音を言わせていただくと、「新書一冊ですべてがわかるわけないやん」である。

帯の文言を書いた出版社・編集者に悪感情は持っていない。普通の人は「わかりにくい」ものに手を出さない。「わかりやすさ」を強調した方が売れる。仕方のないことなのだ、とは思う。

とっつきやすく、時間もかからないスマートな説明が求められているのは非常によくわかる。だが、度が過ぎるのは考え物だ。

「応仁の乱」(中公新書)の著者でもある呉座勇一先生は、「陰謀の日本中世史」(角川新書)の中で「単純明快すぎる説明にとびつくことが、陰謀論のはびこる原因だ」と警鐘を鳴らしている。

歴史を一般向けに叙述する場合、ある程度かみ砕く必要はあると思う。だが、たくさんある要素や経緯を省略する「過度の単純化」は極力避けたいと思っている。

「難しい説明だと読者がついてこないから、なるべくわかりやすく」

多くの作家や編集者が、こう考えている。しかしそれは、「大半の読者はバカだから、このくらいの説明でいいだろう」と見くびる発想につながる、危険な思考ではないだろうか。

世間に多く出回っている「わかりやすい説明」が、「本来10ある分量を2~3に薄めている」ものとすれば、私は「本来10ある分量を薄めることなく、字数を増やして丁寧に説明することで、一般の人にもわかってもらう」ことを目標にしたい。

もちろん、私の力量で簡単に達成できる目標だとは思っていない。常に頭の片隅に置きながら、実行できるよう努力するつもりだ。

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