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トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』




ふとしたことをきっかけにして、ネーゲルを読み返してみようと思った。

この本に目を通したのはもう10年以上も前になるし、きちんと通読したことがあるわけではない。そんな懐かしくも思い入れが強いわけでもないものを読もうと思ったきっかけは、この連休中の同人イベントで頒布される『東方ミステリ合同3』に収録される銘宮さんの作品が、そのものズバリ「コウモリであるとはどのようなことか」という題だからだ。

中身について言及は避けるが、少なからずインスパイアされた元ネタとしてネーゲルの議論があったろう。推測の域に過ぎないけども。

銘宮さんの作品はあくまで秀逸なミステリであって、哲学的関心とは無関係に面白い。イベントに参加する人はもちろん、参加しない人も委託や通販などあるので是非手にとってみてほしい。損はしないから。

さて、ネーゲルである。同書は論文集で、それぞれの章は関連しつつも独立したテーマを扱っている。今回は同書から、そのものズバリ「コウモリであるとはどのようなことか」を(論旨を知っているという人も多いと思うが)簡単に紹介しながら、思うところを書き連ねてみたい。10連休って暇だよな。

銘宮ミステリのちょっとしたスパイスになるかもしれないし、何よりそのエッセンスは客観的記述の意義や意識の在り方にメスを入れるものであり、なんとなしに秘封的だ。


「コウモリであるとはどのようなことか」とはどのようなことか

本論文は有名なため、既にWikipediaにそこそこ詳細な記述がある。入り口として、まずは引用してみよう。
Wikipediaからの孫引きとか、レポート試験で落とされちゃうゾ。

ネーゲルはこの論文で「コウモリであるとはどのような事であるか」を問うている。コウモリがどのような主観的体験を持っているのか=「コウモリであるとはどのようなことか」という問題は、コウモリの生態や神経系の構造を調査するといった客観的・物理主義的な方法論ではたどり着くことができない事実であり、意識の主観的な性質は、科学的な客観性の中には還元することができない問題であると主張した。(Wikipedia, “コウモリであるとはどのようなことか”, 2019/5/3)

記事の続きにも書かれているが、ここで重要なのはタイトルの問いがコウモリ自身にとっての問いであることだ。つまり、それは「コウモリであるものがコウモリという存在として生きるとはどのようなことか」といった問いになる。
何が何だか……となるとは思うが、ややこしいついでに、頭おかしくなりそうな以下の引用をしっかりと噛み締めてほしい。

ある生物がおよそ意識体験をもつという事実の意味は一定であり、それは根本的には、その生物であることはそのようにあることはそのようにあることであるようなその何かが存在する、という意味なのである。(260)

は?

最初の読点まではいいだろう。問題はその次だ。難解な部分を飛ばして読むと、「意識体験を持つということは“何か”が存在することだ」となる。この“何か”とは何か。
ここは日本訳が正確な表現を期すために非常にややこしくなっているので、英文をあたってみよう(ggれば出てくる)。“何か(something)”を説明する記述は“it is like to be that organism”となっている。日本語訳は含意を十分に表現するためくどい表現になっているが、英文は読みやすい(簡単とは言ってない)。自らがそうある(be)ような在りようである存在、それこそが意識体験を持つ生物だとネーゲルは述べる。

人間は人間であるようにしか世界を見ることはできないし、コウモリもまたコウモリであるようにしか世界を知ることができない。ネーゲルの目的は意識の主観的な性格を客観的な物理現象として記述するような考えを批判することだが、それを理解するためには、〈主観的〉な世界の捉え方と〈客観的〉な世界の捉え方に関する根本的な差異を抑えておく必要がある。

主観と客観

このことを整理するために一度コウモリから離れ、本書14章「主観的と客観的」の議論を簡単にまとめ、ネーゲルが両者の関係をどのように考えていたのか探ってみる。
(翻訳者のあとがきによると本章は「コウモリ」の前提として「必読」である)

ネーゲルの主張は、さしあたっては分かりやすい。まずもって〈客観的〉な捉え方とは、世界の具体像を超えた外在的な視点へと向かう態度であり、〈主観的〉な捉え方とは具体的な世界に内在した特定の視点を保つ態度である、と考えられる。

肝要な点は、ネーゲルが両者を異なる2つの観点ではなく、世界の捉え方の両極と考えていることだ。
〈主観的〉な極は、経験に根ざした偏見や思い違いに満ちている。事物の探求は一般に、そうした観点から抜け出して可能な限り特定の条件や特徴、尺度に縛られない〈客観的〉な視点を獲得しようとする。それは終着のない道であり、ネーゲルは「世界を中心なきものとみなし、世界を眺める者を単にその内容物の一つとしてみなす」ことであると表現している(321‐322)。
ここで中心と表現されているものは、まさに事物を探求する存在者の〈主観的〉な視野であり、〈客観的〉な視野を獲得することは世界を観察する存在を世界のうちに現れる単なる事物として矮小化することを含意する。

よって、〈主観的〉であることと〈客観的〉であることは常に相対的なものだ。一般的な成人男子の視点は一人のおじさんの視点よりも〈客観的〉だが、物理科学の視点からすれば〈主観的〉なものにすぎない。個人だけではなく、おじさん、日本人、人間といった、さしあたって一般的に思えるあらゆる属性が〈客観的〉な視野獲得の過程でその意義を奪われていく。

〈主観的〉とは必ずしも個人的なものを意味しない、という点は重要だ。〈主観的〉かつ多くの人たちが共有する観点はいくらでもある。そうした〈間主観的〉とも表現される世界の捉え方と、〈客観的〉な世界の捉え方は根本的に別であり、前者によって後者を説明することは出来ない。
余談だが、〈主観的〉な観点を重要視する人たちはしばしばこの罠に足をすくわれる。

ネーゲルはどちらかの優位性を語るわけではない。ある種の哲学的問いに対して〈客観的〉な観点で切り込むことが適切ではない、という指摘をするのみだ。

私の人生に意義はあるか

問題は私達がどちらの観点も同時に持っていることだ。

例えば、人生の意義について。「種の保存」という観点を持ち出せば、あるレベルでは〈客観的〉な意義を私の一生に与えてやることができる。
けれども、それは〈主観的〉な観点からすれば人生の意義でも何でもないかもしれない。私はホモ・サピエンスの繁栄や、人類の存続のために生きているわけではない、と考えることは特別な考えではない。

〈客観的〉な観点から人生の意義を語れば、ある程度はもっともらしい回答を与えることができる。だが、〈主観的〉な観点からすると、私個人の人生であることを捨象して意義を説かれること自体がくだらない。「私が生きている」こととは無関係に独立して語られる人生の意義こそ無駄である。

私の人生の意義とは、「私が生きている」ということと無関係に語られるべきものではない。そう考えることは、私自身を「そのようにあることはそのようにあることである(it is like to be)」ものとして人生の意義を考えることだと言えるだろう。

「コウモリであるということ」も、こうした問題として考える必要がある。私たち人間もまたit is like to beという存在であるならば、コウモリの体験を、どうやって知ることが出来るだろう。

心身問題

さしあたって述べておかねばならないことは、ネーゲルはこの問いを「そもそも他者の体験を知ることが出来るのか」という問いとして提示しているのではない、ということだ。既に触れたように、〈主観的〉とは決して個人的であることを意味しない。実際、私達が身近な他者の体験を知ろうとすることはある程度可能である(それを完璧に知ることが可能かどうかはともかく)。
ネーゲルの問いとは、あくまでコウモリという異なった認識形式を持つ生物種の体験を、人間がどのように理解することが出来るのか、というものである。彼がそれを扱うのは、主観的な意識のうちにあるものに関する客観的・物理的な基礎付けがうまくいかないことを主張するためだ。

意識のうちにあるものを物理的に説明することは、種に固有な体験を客観的に記述可能な物理現象に還元することに他ならない。コウモリの特殊な(音の反射を利用する)認識形式は、波などのより一般的な物理現象に還元されることで人間に(そしてコウモリも含めたあらゆる生物に)理解可能なものとして記述される。

しかし、それはコウモリの特殊な体験を否定することではない。より一般的に理解可能な物理現象による説明が、コウモリの体験そのものとすり替わるわけではない。だとすれば、こうした説明によって心的現象は全て〈客観的〉な物理現象に置き換えることが出来る、と言えるだろうか。

心的現象が物理現象に還元可能であること、それ自体をネーゲルは否定しない。しかし、それは意識の〈主観的〉な内面を記述するものとして正しいと言えるのか。その根拠は見つからない、と彼は繰り返し述べる。それがどのような意味であるかを示唆する注を引用してみよう。

問題は、私がモナリザの絵を見ているとき、私の視覚体験はある特定の性質をもっているのだが、私の脳を覗いている人にはその痕跡が発見できない、ということにあるのではない、というのも、たとえ彼がそこに微小なモナリザ像を発見したとしても、彼にはそれを私の体験と同定する理由がないからである。(271, 注10)

人間が物理現象に還元された形でコウモリの体験を知るために、コウモリ自身の体験を知る必要は一切ない。人間とコウモリの体験はそれぞれ、還元された形によって初めて共有されるのであって、体験そのものを共有するわけではないからだ。だとしたら、記述された物理現象がコウモリの体験であることを確かめることはできないではないか。
それがネーゲルの主張だ。

客観性というフィルター

ネーゲルの論旨は「そもそも他者の体験を知ることが出来るのか」ということではない、と述べた。だが、彼の主張の骨子を掴むことで、この問いにアプローチすることも可能に思える。

〈主観的〉な立場を強調する人は、しばしば他者を理解する困難と「〈客観的〉な観点など成立しない」ということを結びつけて考える。ネーゲルの議論も、〈客観的〉な物理記述を批判するものとしてこの手の主張に援用されかねない。
確かに、この手の記述は他者の理解には及ばないかもしれない。だが、それでもなお〈客観的〉な記述の意義が損なわれはしない。それは(それ自体重要なことではあるが)単に意識体験の本質的な部分に触れることが出来ないだけであって、私と異なる存在を私にも(そしてあらゆる第三者にも)共有可能な形で記述する、という使命を持つ。言うなれば、こうした記述なしに他者を理解することもまた困難なのだ。

「〈客観的〉な観点によってしか私達は他者を知ることが出来ない」ということと、「〈客観的〉な観点によって他者を根本的に知ることなど出来ない」ということは、ともに否定することができない。それこそ、これらは私達の〈主観的〉な意識の在り方に付随する確かな事実だ。〈主観的〉な世界の捉え方が真実であり、〈客観的〉な世界の捉え方が間違っているわけではない。〈主観的〉な世界の捉え方に付随する本質的な部分に〈客観的〉な世界の捉え方がある。

客観性というフィルターを通すことでしか、私たちは世界も他者も知ることが出来ない。それは自由に取り外すことの出来るような色眼鏡ではなく、私達の目であり耳に外ならない。

どういうわけか、人間は世界の外側に出ることでしか世界に生きることが出来ないようでさえある。それは「人間であるということはどのようなことか」という問いへの、一つの答えかもしれない。

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