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中国語日記 25ヶ月目

中国語勉強日記 25ヶ月目

3ヶ月間、お休みをいただいた。
就職してからも継続していたこの中国語日記も1月には力つき何もできない日々が続いていた。

と、、、就職してからの中国語日記を読み返していて全てが上と同じようなニュアンスで始まっているように思う。

最近、「なぜ働いていると本を読めないのか」という本が発売されたが、それだけ日々日々の仕事の圧力、プレッシャー、8時間求められているのだからしょうがないと思いつつ、「しょうがないで済ましてたまるか」の葛藤で今月は少しだけその葛藤が勝ったような気がする。(というかもしかして毎月書くほど内容がないのが原因かも?笑)
GWに実家に帰っていた。

毎年大体この時期になると父が自分の家にあるピザ釜を活用すべく会社の人を呼ぶピザパーティーを開く。
2014年ごろに始まり、コロナ時期を除いてほぼ開催している。
今振り返ると大人といえば「親、先生」を除いていなかったあの時に、それ以外の大人と話すことができる良い機会だった。
父の会社には海外出身の同僚も何名かいた。最寄駅まで5km, 行き着いた駅も1時間に1本でICカードも通っていない絵に描いたような田舎に海外にバッググラウンドを持つ人なんてもちろんいなかった環境下に育った私にとって彼らとの時間が10年後壮大な伏線回収だったことに今年のGWにようやく気づいた。

そのピザパーティーに参加していたタイ出身のJは日本に来て間もないのに日本語を流暢に話すことができるだけでなく、英語、そして少しの中国語も話すことができた。「自分の母国語以外の言葉が話せる」という人にほとんど出会ったことがなかったこと、単純にその姿がカッコよく見えたのか大学に入る際に、ある一つの目標を掲げた。

今思えばこれから始まる大学生活への期待が無限大に広がっていたからこそ掲げられた目標だったのかも知れない。
「3ヶ国語以上話せるようになる」
しかし、無限の長さに感じた大学時代は当たり前だが無限ではなく日々の生活に精一杯なのに加え自身の怠惰さも拍車をかけなに3つどころか何一つ言語を習得する兆しも見えないままいたづらに時間だけがすぎて行った。その後就活活動に行き詰まりを感じその現実逃避(当時は突破口だと思っていた笑)の手段として韓国留学を選び1年間現実逃避の旅に出かけることになった。そして自然と韓国語(1ヶ国語目)を身にすることができた。
韓国語を習得(?)したが世の中韓国語が出来る人など星の数ほどいることを実感した私は別の言語を学ぶ必要性を感じた。そこで英語……にはいかず中国語を選んだ。選んだ理由の1つに大学受験時に培った英語アレルギーがある。
ここでの英語アレルギーあまりに口に出さずに高等英語(読解)を押し込んでしまったこと故に口と脳の連携が取れずに必要以上に英語に対しての拒否反応が出てしまう現象のことをさす。その思考回路から抜けずこれは無理だと判断した私は全く基礎も全くない状態から1から独学で言語を勉強しようと思い始めたのが中国語だった。(2ヶ国語目)
(その後、どのように中国語を勉強したのかに関してはこの「中国語日記」で記録している。)

さてコロナを明けて久しぶりに我が家で父の会社の人を呼んでピザパーティーが開かれた。
たまたま参加者に以前ピザパーティーに参加していたYさん(中国出身)が来ていたので彼女と話す機会に恵まれた。2年近く勉強しており日常会話程度なら基本的に意思疎通可能になっていたため長く彼女と会話ができた。
こうやって書き出してみればピザパーティーで触れたことがきっかけで外国語に対する思いを募らせていたことがさも直線のように圧縮されているがこの間には10年近くの時間が流れておりそもそも外国語に対してどのような動機を持って始めたのか、その芽はどこだったのかなど曖昧になっていた状態でした。そのため再度話してみて時間という土に覆われていた芽を今回のYさんとの会話における達成感でようやく掻き分けることができた。
そういえば、私10年ぐらい前のこの場所が1つのきっかけで言語というのが目標になったのかも知れない
もちろんそのほかにもK-POPや文化的な影響や留学等そのほかの影響のうちの1つということは間違いないが。母国語以外の人が話せる人が遠い遠いおとぎの国の話ではなく自分の生活延長線上で可能かも知れないと思わせてくれた一つのきっかけになったことは間違い無いだろう。

さて外国語学習の道は今後どうなるだろう?
そしてこうやって撒かれた種は、このさきどのように成長していくのだろう。
ただ日々地道に自分の思うまま流れていくことできっと予想もできない場所に連れて行ってくれることは間違い無いだろう。それは、今回の体験で1番身をもって実感したことだから。


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