「最も」弱い人

東日本大震災から10年。この1週間くらいはさまざまな発信で、大災害から10年をして、をみることばかりだ。

特に自然災害になると、人間も自然の一部であることをあらためて自覚することは私たちに、日常的な暮らしぶりを改めて振り返る機会をもたせることにもなる。そして、いつおこるかも、何度でも起こりうる自然災害について、防災や減災という視点を求めようとする。

どうしても、日常と非日常という切り替えになりがちである。それだけ日常が平和になっているともいえるのかもしれないが、ある視点からみると西洋的な価値感になってきているとも言える気もしなくはない。

災害が非日常であると仮にうけいれて議論をするとしても、どうにも災害に対する備えや災害時の話をするときに、「最も弱い人」を視野にいれるとか、「最も弱い人」の視点でという語り口にはとても違和感をもつ。

たとえば、家族という集団の中で、「『家族の中でもっとも弱い人』の視点で考えてみようという呼びかけを、その家族が考えることに意味がないとは言わない。そこには家族という集団の中の価値感によって、強い弱いが決められているからだ。そこには家族の中での力動関係により、強弱が決められている。それが「家族」外からの大きな力(この場合は災害)によって、「クライシス(危機)」にさらされたときの対応を考える上での一視点としては「あり」だと思う。

しかし、これが政治的、政策的になれば、話は変わってくる。また、地域(この場合、地理的な人の集まっている場所という意味)で考える上でも、「最も弱い」人とは一体誰なのか?と言いたくなってしまう。そこには能力主義的な一視点の価値感が横たわる。「最も弱い人」を決めているのは誰か?なぜか?そこには強者の視点が横たわる。
歴史上、教訓(めいたもの)としても、何度も何度も、たくさんのことから私たちは、このことを否定されている。「弱いから」助けるのではない。「弱い」か「強い」かではない。
それなのに、なぜ、「多様さ」を前面に出して議論することができないのか。それを極限状態だからとは言えまい。歴史はそれを私たちに教えている

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