ほんとうは「子ども」はいない

オカルトチックにも見えるタイトルだけれど、別にオカルトを書きたいわけではない。

わたしたちはいまあたりまえに「こども」「高齢者」ということばを使う。そして、みながなんとなく「こども」「高齢者」という人の群(いまの定義でいえば年齢集団)がいるということが通用する世界に生きている。

学校などでお話をさせていただくときに、なぜ65才以上を高齢者というのか?その定義とは何か?という話をさせてもらう。みんななんとなく65才以上が高齢者(年寄り)であるというなんか、科学的な背景があると思っているらしいが違うよ。という話である。これは簡単に調べられるので、まだそう思っている人たちは調べてみてほしい。

それよりも確固として私たちの社会に位置付いている「子ども」についての方が、なぜ、「こども」という社会集団が存在しているか?という問いの方が議論の俎上にのせることが難しい。

L'Enfant et la Vie familiale sous l' Ancien Regimeというフランス語の本があるフランスの歴史学者フィリップ・アリエスの著作で『アンシャンレジーム期の子供と家族生活』という原題になるが、日本語の訳は「<子供>の誕生」とつけられている。

【子供】が誕生する???

子供と大人の一線を当然視し、学校教育制度を当然視する現代の子供観に対して、疑義を呈する書物である。

wikiからの引用になるが、なかなか訳書として、難しい本なので、その趣旨はwikiなどからみてほしい。
つまり、近代以前には「子供」という存在はなく、ヨーロッパ近代の価値観に基づいて、「子供」という価値感は創られたことを歴史的に指摘した書物である。いまでは世界中で「子どもの権利」を守るために、まず、社会的に「子ども」というカテゴリーを存立させ、そこから議論がスタートする構図がスタンダードになっている。いや、支配的になっている。そうして、それができていない国や地域、民族を前近代的であると言っている。「こども」の権利を守ることを旗印に差別を許容する構図にすらなっている。

こどもの権利を守ると言うことを批判しているのではない。こどもをこどもとして呼称し、集団化することでしか、年齢のいかない人間を社会的にまもり育てることができないのか、そもそも年齢のいかない人間「だけが」なぜ、支援や援助を受けなければならない存在なのか?という問いをたてることができない論理構造になってはいないか?

そんなことを考える。

「こども」という言葉を使わずに、「こども」の支援を考えてみると、「こども」という言葉を使わなければならない社会的な背景を考えることができるのではないか。

「考えるより、まず動け」は大切だが、ときに、立ち止まって考えることも必要だと思うのだが。。。

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