共在感覚

今週の日曜日の読売新聞の空想書店にドミニク・チェン氏が「翻訳できない 世界のことば」創元社という本を「わかりあえなさを翻訳」というタイトルで書かれていた。私はドミニク・チェン氏という方を存じてなくて、そこからリサーチをはじめると、こんなリレーエッセイに彼の名前が紹介されていた。「記憶する体」春秋社という著作から興味をもち、twitterでもフォローをしている伊藤亜紗氏のものだ。https://www.akishobo.com/akichi/nichijo/v12
(このリレーエッセイはよく寝屋川市民たすけあいの会を何かと応援してくださっている吉村萬壱さんも含めて3人のリレーらしい)
 このリレーエッセイの中で目についたことばが「共在感覚」ということばだ。もともとこのことばは、文化人類学者の木村文治氏のことばらしいが、そのあとのくだりを紹介する。
「この馬がいることによって、モンゴルの人々や動物、景色と「共に在る」ことが可能になったと語っている。馬はチェン氏の分身である。この分身としての馬が、チェン氏と、モンゴルの人々や動物、景色をつなげているというわけだ。物理的な距離を超えて、チェン氏はモンゴルにもいる。」
その地の人と人とのつながりの中で「あげる」といわれた馬が自分の分身としてそこに居て「人・動物・景色」をつなげる感覚。デジタルによる空間を超える技術的なことではなく私たちの中にある時空を超えた感覚。伊藤氏の書かれる文脈とは違う意味ではあるが、私の中にいまの自分の「ひっかかっている」意識をアウトカムできることばの一つを手に入れた感覚をもった。
 そう、冒頭で書いたドミニク・チェン氏が紹介された「翻訳できない」ことばにしろ、この分身議論の中で紹介された文章から感じた私の中での「交換」ということばの意味や抽象にしろ、この「共在感覚」から拡がる世界をして深めていきたいと思う。
 そう今度の「障害福祉の常識を問い直す」講座の4回目のお題は「社会性」。socialという西洋概念を日本語でなぜ「社會」という訳語を充てたのか。Socialは戦後、日本社会に位置付いてきたのか、どうなのか。そうではないとするならば、日本(日本)起源な「社会」はどんな現象を現しているのか、をそれまでにもう少し考えたい。

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