「80年代的なもの」

「80年代的なもの」
実はこのことば=メタファというか、レトリックというか、【ファッション】というか、このことそのものがおそらく「伝え方」「語り方」の技法なんだけど。
 「80年代的なもの」ときいてわたしたちは何を思いうかべるだろうか。
私にとってはとても聞き慣れないこの「80年代的なもの」

「ただ、糸井さんの象徴する「80年代的なもの」の問題点は、「表面的には政治的ではないふりをする」というマルクス主義からうまく「距離を取る」ための知恵が、いつの間にか「政治的な態度表明をしてはいけない、それは大人の態度ではない」というイデオロギーにすり替わっていったことです。

いま日本の「政治」「芸能界」「テレビ」に起きている「ある異変」の正体(宇野 常寛,三浦 崇宏) @moneygendaiインターネットが世の中の「速度」を決定的に上げた一方で、その弊害はさまざまな場面で現出している。現代日本では、「語り口」だgendai.ismedia.jp

この対談記事はその後「伝え方/語り方」の時代へと内容は移っていく。SNS時代である現代-「20年代」とでも表現すればいいのか-以前から使われていた「ふわっとした民意」だとか、メディアを通して語られてきた「大衆」の捉まえ方?掴み方?この中で語られる対案を求められない方「炎上した」政治的な「#」アクション。たしかに、そこにはただ単に反対であることを表明するか否かという単純化した構図。

 気がつくと日常的ないろいろな場面で、私たちは私たちの意見を表明しなければならないという圧力を強くうける。「感じたこと」や「思ったこと」ではなく、「意見」、そして、「大人」になっていけばいくほど、それは「対案」を求められることにも変わる。反対するならば「対案」を出せ、と。そういうのまにか、反対意見を押さえるための会話的技法として「対案」を出せが使われる。
 フラットな議論の中でクリエイティブなものを創り出していくときに、失敗ありきで議論、アイデアだし、をしていくことが求められる。しかし、日常的な社会の中で私たちはどちらの場面を多く経験しているのだろうか。
 また、「伝え方/語り方」文化優勢の時代は、社会の構造的な問題を軽くおしゃれに伝えるか、イデオロギー的に伝えるかという方法しかなくしてしまっているのかなとも思う。対談の彼らの言い方でいえば、前者が9割後者が1割となるのだろう。その他の方法論を失っているのだろう。
  80年代。自分にとってはまさに青春時代だ。68年生まれの自分にとって中学生高校生そして大学生がまさにその時代。思春期をすごし、まさに自分の中の文化的底流、感覚的底流。では?自分なりの「80年代的なもの」を改めて考えてみたいと思った。少なくとも10割とカテゴライズされた中にはなかった。

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