モビリティというあいまいな未来?

モビリティ、いろいろな分野できこえてくるこのことば。私たちのような福祉や「障害者」分野にかかわるものにとっても身近なキーワード、キーコンセプトだ。つまりは移動にかかわることなのだけれど

モビリティとは英語の「mobility」のことで、「動きやすさ」、「可動性」、「移動性」、「流動性」などを意味し、職業の移動や階層の移動、または乗り物など人の移動に関する用語として使用されています。
自動車メーカーをはじめ、関連する企業を含めた自動車業界のことをモビリティ分野といいます。
https://www.zurich.co.jp/car/useful/guide/cc-whatis-mobility-change/#:~:text=モビリティとは英語の,モビリティ分野といいます。

また、こんな解釈もあります

「モビリティ」とは、人の目的地に対する“行きたい!という感情”のことです。
https://www.goonews.jp/news_detail.php?view=auto&id=7611

どちらにしても「移動」にまつわること。
私たちは、歩くことと道具としての自転車という移動手段(つまりは自力の)から、自動車などのモータリゼーションを開発してきました。そしていま、自分の肉体が移動するのではなく、情報を媒体にして肉体の移動距離を0にするという方法を手に入れました。実質的な肌感覚としてこの二つは同義でないはずですが、今年私たちが実感していることは、この二つが少なくとも経済市場の中では同列に語られることだと思います。つまりはこのニュースにかかれていることにつながります

この記事の最後に今日のタイトルにつかわせてもらった「モビリティというあいまいな未来」ということばが登場します。トヨタのコーポレートメッセージについての批判としてです。

「モビリティ」というあいまいな未来を語るのではなく、具体的なひとつの未来を選ぶべきタイミングです

トヨタという企業の10年後、20年後を語りながら、モビリティ産業といわれる自動車業界が、この50年くらいに電気産業などに起こった革命的破壊と同じように消えていく可能性があると述べながら、結局は、「人はなんのために移動するのか」?というシンプルな問いに戻ることを問います。この議論にそのまま乗ることはしませんが、少なくとも「モビリティ」があいまいな未来になってきていることは事実です。


 肉体が移動をさせることを
     補助する、そして、そこにかかる時間をできるだけ短くする
  ことから
    代替する。ということにかわったことをモビリティ革命と同義にすることは、現在の社会の中で、そもそもの社会構造を変えていくことは間違いないのでしょう。それが、補助なのか、代替なのか、それとも全く違う第3の道なのかもしれませんし、MIXなのかもしれませんね。
 そして、もっとも大事な視点は、私たちは近代という時代に「移動の自由」を得てきたということです。それがもたらした人類社会にとってのメリットとデメリットは、モビリティという工学的、市場経済的な世界の議論とは別に、議論していきべきことであると思っています。

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