常識を問うということ

ゆうべで10回シリーズで行われた「障害福祉の常識を問い直す講座」が終了しました。来年はその基礎編をすることになりそうですが。こうしたアウトプットの機会を与えていただき、ありがたいことです。

この「「常識」を問う」というタイトルは主催の方がつけていただいたのですが、今回は統計などの数的な事実により、常識づけられていることと常識づけられていることの裏側にある事実ではない事実、を明らかにしていくといういま流行のデーターベースドのやりかたではなく、論理的な話と障害福祉の現場的に抱えている構造的矛盾から起こっている「常識」といわれる構築された権威を、その背景から明らかにしていく、というやりかたで「常識」を問い直していきました。

障害福祉の分野は、事実が事実をつくりあげていく私たちの社会の中で、事実を事実化させる社会構造が矛盾に満ちているが上にもっとも影響をうける社会的な分野です。そもそも障害者を障害者にするのは社会であり、その社会構造であることからそのことは明らかです。それを人権や権利ということばだけを使うのではなく、人権や権利を底流に置きながら、その社会構造を問い直すということが、常識を問いなおす、ことであると私は思ってきました。

そして、常識を批判するだけではなく、とんでもなく複雑な「知恵の輪」があり、そのからみあった事象を、単にわからないと切り捨てるのでは無く、真摯に向き合い、知恵の輪をとくことに腐心するのではなく、複雑なことが「ある」ことを意識し、そのことに立ち向かうことから、常識を問い直す作業がはじまるのだと思います。

私たちはいま、過剰な問題解決、課題解決の不寛容な社会に生きています。そして、その窒息しそうな社会の中で、生きやすさをもとめて、どんどんと「常識である」という権威カードを発行し続けています。
私たちの「やりたいというモチベーションはすばらしい」ことですし、そのことそのものは批判されることではないと思いますが、いっぽうでそれが常識になってしまうと、それは単に消費される対象になってしまいます。

常識をつくらない社会、つまり、多種多様な価値感が乱立して、その中で生まれる他者、他の価値感への興味と寛容さがあってこそ、対話が生まれるわけですし、対話ばかりを強調することは、一方で閉鎖的にもなり、また常識を生んでいます。

来年は基礎編を開催していただけることになりそうです。常識を問い直す作業の発信を、まだ、続けていくことになりそうです。

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