「正しさ」と「楽しさ」

このところ、自分のSNSのなかでよく見られるのが「正しさ」よりも「楽しさ」で、という下りである。分野の違う人たちが同じような文脈で発信しているのが興味深い。
それも、「正しい」と「楽しい」ではなく、「正しさ」と「楽しさ」である。「正しい」という形容詞にわざわざ接尾語の「さ」をつけたことばを発信する。

 実は私は「正しさ」と「楽しさ」は対立するものでは全くないと思っているので、その発信をはじめは「???」と思っていたが、あまりにもみなさんが、発信するので、なぜだろうと思い始めた。

 NPOの世界ではとても有名な松原明さんが昨日FBで読んだ2冊の本のレビューをして、現代哲学の最大のテーマについて書かれていた。
ちょっと、拝借しよう。

非常に単純化して言えば、20世紀後半、欧米の哲学界を支配したのは、観念論であり、相対主義であり、構築主義だ。その根っこは、20世紀初頭の現象学と記号論(言語論)にある。(それに付け加えるなら精神分析だろう)
つまり、世界は、人間の認識形式によって作られたもので、モノそのもの(実在)には届かないし、それはあるかどうかよくわからない。私たちの事実に関する認識は、人によって異なっており、かつ、認識形式は、個人が作り出しているのではなく、個人の理性以外のものが作り出している。それに私たちの事実理解は制約されている、という考えだ。
したがって、私たちがそこに絶対的な正しさを求められるような「真理」はない、という結論になる。
ヨーロッパ大陸では、ポスト構造主義がその代表格だったし、欧米の社会哲学では、社会構築主義がその思想を広めた。
そう社会構築主義の思想の中に私たちはいるわけで、松原さんもこの文章のあとにもこう続ける

これらの思想は、20世紀前半まで主流だった、なんらかの「正しさ」を見つけ出せば、その権威性で人々を支配していけるという思想へのアンチテーゼとしては有益だった。
しかし、「正しい知識」をむしろ忌避するというアプローチとなり、相対主義が広まることへとつながっていく。
私たちの日常生活でも、「正しさは人それぞれ」「正義は人の数だけある」という言説が広まり、結果、「真実」が価値を失っていくことにもつながってしまった。そこには、ポストトゥルースの世界が到来したわけである。

正しさによる権威性対相対主義的な人それぞれという言説の流布、まさに、そこに「正しさ」に対峙する自分たちの姿勢があるように思う。ただそれだけでは、「正しさ」に「楽しさ」を対立軸としておく理由にはならない。(そもそも私は対立するものと思っていないが)

「正しさ」が権威主義的な支配の概念であるとするとして、そもそも「正しさ」は私たちの外にある。つまり、受動態である。自分たちの中から能動的に「正しさ」は沸き上がってはこない。自分たちが産まれ、暮らし、学び、教えられ、身に付けてくる、もしくは、強制されてくるのが「正しさ」である。21世紀の哲学は、新たな「正しさ」を求めていく運動に突入したとも言われるが、社会を社会たらしめしめることが「正しさ」という真理にあるやないやの議論とは別に、私たちのソトにあることは間違いない。
 かたや「楽しさ」はどうであろうか。おそらく「楽しさ」はウチにあるように語られます。まわりから「楽しいね」と言われても、楽しくないものは楽しくない。楽しい場面は作り出せても最終的に「楽しさ」を感じるのは内面的な能動態である。(実は発信している人たちはここらあたりは厳密じゃないんだけど)つまり何がいいたいかというと「正しさ」と「楽しさ」の対立軸は「受動態」と「能動態」の対立なんですよね。対立軸を作り出したい人たちが語っているのは。
 私はなんでもかんでも二項対立的に物事を語ることが好きではないので、「正しさ」と「楽しさ」は対立するものではないと思っています。上であいまいに書いたのは、発信している人たちが、「カムフラージュ」としての「正しさ」と「楽しさ」をつかっているのかなと思う言説もよく使われるのであいまいに書いています。共感のキーワードとして「正しさ」や「楽しさ」を使っているのであれば、それはそもそも、「正しさ」や「楽しさ」をデザインしているのであって、対立もなにもが劇場型世界でしかないのでね。
 あと、最近知った中動態で、この議論をやってみてもおもしろいかなとは思っています。これはまた別の機会に。


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