「共感」を前提にしない

市民活動や福祉の分野で活動や事業を行っていると、その多くが「共感」という感情に基づいて行われていることがあたりまえになっている。

正確にいうと、市民活動や福祉の活動事業をすすめるために、多くの人や社会に「共感」をよびかけ、その活動や事業を進めていこうとしている。つまり、私たちの活動は「共感」をひろめる、「共感」の輪を広めていくことをして、その目的や目標を達成しようとしているといえる。

そのことは逆にいうと多くの人や社会の「共感」をよぶために、いろいろなことを組み立てていくということに陥ることを示唆する。もちろん、市民活動や福祉の分野でも多くの人や社会に「共感」を求めることを【目的】にしている活動や事業もある。しかしながら、市民活動や福祉分野は、必ずしも共感を得ることが【目的】ではなく、あくまでも【手段】である活動や事業も少なくない。自分たちの活動や事業の目的や目標を見直すことの必要性が常に言われることはそれゆえでもある。

私などはその業界に長くいると知らず知らずのうちに、「共感」を得るための方法論や広告、戦略などを身に付けてしまっていて思考がそれに凝り固まってしまっている。もちろん、多くの人に共感を得る活動が自団体の最優先のミッション(使命)ではないので、あくまでも【手段】として考えるが、かといって、「共感を前提としない」手段をもっているかと問われるとほぼないと言わざるを得ない。それほどまでに【共感】を得ることは有効性が高い。

だからこそ、それに溺れてしまうと手段化の罠に陥ってしまう。そして、手段化の罠だけではない構造的な矛盾に陥ってしまう。特に障害者の分野はそうなってしまいがちだ。
感動ポルノということばがある。障害者が障害者であることだけで感動を呼ぶことを社会的につくり出されていることをして使われる言葉であるが、がんばっている障害者が共感をよぶという現象も指している。つまりは共感という感情は創り出される感情であり、そして、現代社会においてそれは容易に消費財となる。
地球環境の危機を煽り、次世代にきれいな環境をのこすというスローガンも共感をよぶ。国際的な飢餓を訴え、飢餓や命の危険に晒されるこどもたちの映像を流すことも、かわいそうという感情を促し共感を呼ぶ。
そう。私たちの心に響くような訴えは共感という私たちの感情をよび、そこから輪を形成していく。悪くない。そうして特に、寄付の文化は醸成されてきたではないか。

そのとおりである。
そして、それだけである。

感情は揺れ動く。共感は、常に共感をし続けてもらわなければならないという使命を帯びる。そしてそんなことはあり得ない。あり得ない前提でまた戦略を考えていくことを必要とする。

共感をもとめていく手段が悪いわけではない。共感しか手段をもたないこと、そう思い込んでいることが問題なのだ。そんなことを考えている。

※この内容は2021年2月27日にオンラインの講演でお話する内容のラフスケッチになっています。講演はこちら↓
暮らしネットフォーラム6 ~廣瀬 明彦氏を囲んで~ zoomウェビナー https://knet-f6-1.peatix.com/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?