ひたすら”考える”ことにこだわる理由

これまで、私のnoteには”考える”という言葉が何度も出てきました。

なぜここまで考えることにこだわるのか。その理由に関して書いてみたいと思います。

そのために、”才能”という言葉の私の解釈を紹介したいと思います。

一言でまとめると、「才能は定性的なものではなく、定量的なものである」ということです。

人によっては当たり前かもしれませんが、解釈をそろえるために、少し例を交えて説明します。

世の中では才能はあるかないかの2つに分けて論じることが多くあります。例えば、「私には料理の才能がないから」という言い方をしたり、「彼にはスポーツの才能がある」という言い方をしたりすることがあります。これは才能を定性的に考えている人の言葉です。

ただ、あらゆる人には才能があります。これはポジティブな楽観論ではなく、事実です。

例えば、私は人と比べて絵があまり上手くないと思われていたため、中学の美術で常に成績は2でした。そんな私でも、ピカチュウを描けば10人中3人ほどはそれがピカチュウであることがわかる程度の絵の才能は持ち合わせているのです。

ゆえに、誰にでも才能はあって、大切なのはそれがどれだけあるのかという定量的な問題になるのです。

このことを踏まえて、本題に入ります。

私はつい最近まで才能だけで進んできました。それは才能をたくさん持っているからではなく、才能以外で進む術を持っていなかったからです。もちろん、全く努力をしてこなかったわけではありません。ただ、私がやってきた努力は人から言われた努力をただやるだけでした。その積み重ねが今の私です。それで何とかなっていると思っていたのが大学3年まででした。そのころ、アメフトをやる中で、どうすれば今よりも高いパフォーマンスを出すことができるのかがわかりませんでした。

そんな中、自分よりもパフォーマンスの良いプレーヤーを見ると2種類いることに気づきました。才能で自分を上回っている人と才能は自分と一緒かそれ以下なのによく考えて動いている人です。

その時私は気づきました。このまま自分の才能だけで進んでも自分の才能の中でしか生きることができないことに。

そのころから私は自分の才能だけに頼る生き方をやめるようにしました。ただ、思ったよりも自分の才能の殻を破るくらい考えることは難しいことでした。結局、自分が現役でアメフトをやっている間には考えて動けるプレーヤーになることはできませんでした。

誰しも自身の才能の壁を感じることはあると思います。それは早ければ早いほどいいように思います。私の場合は才能の限界を感じるのが遅かったがゆえに考える力を伸ばし始めるのが遅れました。

この後悔から、私のnoteでは読む人が自分で考えることができる力を伸ばすお手伝いをできるような文章を書いています。これからも時々読んでいただけると嬉しいです。

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