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心のなかの「透明な個室」の話

今の若者は心のなかに「透明な個室」を持っている。そんな記事を昔に読んだ。わたしの頭の中で、なぜか元巨人の辻内投手と結びついたイメージなので、きっと今から10年くらい前の話だろう。

皆さんは、個室で育っただろうか。

私は小学生の低学年までは父と母と妹と川の字になって眠っていたが、小学校5年生くらい?に個室を与えられた。「自分だけの世界」が与えられたことに、とてもワクワクした。

私が考えているのは、個室を持たず、朝起きてから眠るまでを家族との団らんの中で過ごすことが当たり前であった時代と、個室が当たり前になった時代とでは、心のパーソナルスペースの持ち方が違うのではないか、という話だ。

たとえば、自分ひとりで過ごす時間。一人ぼっちで寂しいイメージもあるだろうが、少なくとも私は一日の中で自分ひとりで静かに一日を振り返る時間がほしい人間だ。

別に人付き合いが嫌いな訳ではない。気の合う仲間とは夜通し仕事について語り合うこともある。でも、一人の時間はほしい。

うっかり世代間格差として切ろうとしてしまったが、これは世代間格差ではなく、育った環境の差かもしれないし、元が社交的か内向的かも関係していそうだ。夜、ひとりで寝る時間も惜しんで漫画や小説を創作していた私には個室は必須だったし、もし個室が与えられなければ今とちがった生き方をしていたかもしれない。

ともかく、心の中の「透明な個室」のことを思い出すたびに、コミュニティの中での多様性の受け入れ方の問題を思う。

別に飲み会に行かなかったり、みんなと一緒にはしゃぐのが苦手だったり、そんな人もいてもいいと思う。みんなでいる時間も好きだし、一人の時間も好き。それでいいじゃないか。

コミュニティづくりのとき、一番高いテンションに合わせなきゃと思うとしんどい。熱狂には熱が必要だが、それも強制されるとおもしろくない。

元気な人がいていい、おとなしい人がいてもいい。それぞれ、自然体の自分でいていい。だって、結果その方が生産性は上がるのだから。

そんな包容力と弾力性を持ったコミュニティをつくりたい。誰も置き去りにしない世界をわたしはつくりたい。

そんなことを思ったのであった。

おしまい。

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