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自然と人間の関係についての考察、及び現代人への警鐘

自然と人間を対比するとき、よく用いられるのは、自然物と人工物についてである。まず前提として述べておかなければならないのは、人工物は自然物のうちに含まれるということである。というのも、人間は人間が作ったわけではなく、気づいたら存在していたというところに見られるように、自然由来のものである。であるならば、人間は自然物であり、自然物が生み出した結果(人工物)は、自然物に含まれるのである。生物の世界では、消費者や生産者、分解者というカテゴリがあるが、分解者が生物の死骸を分解することによって、良質な土壌を提供することは、植物ひいては生物全体において、良い循環をもたらしている。このことについては紛れもなく自然物由来の自然物だと理解してくれるはずである。であるならば、人間に対しても全く同じことが言える。自然物と人工物の比較においては、全体と一部という形式で論を進めていく必要がある。

ではなぜ我々は、自然物と人工物とをまるで同じ土俵に立っているかのような態度を取るのか。それは、人々の間に人間と自然とを切り離すような思想が広く浸透しているからと考えられる。現代教育において、扱われる学問の多くは、西洋的なものである。ここで、数学について考えて見てほしい。数学は自然界における現象を抽象的に操作している。ひとつ例を出すなら「りんごが一つと、みかんが一つあります。フルーツは全部でいくつありますか。」という問いに対しては、りんごやみかん、フルーツといった情報は全て捨象され、「1+2=3」というアプローチがされる。そしてこのようなアプローチの仕方は、その他の学問においても、広範的に及んでいる。

自然と人間の関係に対して、もう一つ考えて見たいのが、人間は自然をコントロール下に置きたいという願望についてである。この願望は人間の傲慢たる所以の一つとして言えるだろう。そしてこのことについて私自身も反省すべき点がある。さらに言えば、少なくともこの記事を読んでいる皆様にも関わることである。

①蛇口をひねることの意味は何だろうか。

②スイッチを押すことの意味は何だろうか。

③でこぼこな道を歩くことの意味は何だろうか。

④夜が来ることの意味は何だろうか。

意味の分からないような文章を書いただろうか。順を追って説明してきたい。蛇口をひねることの意味は、水を出すことである。スイッチを押すことの意味は、ONとOFFを切り替えることである。では、でこぼこな道を歩くことの意味とは何だろうか。歩くことの意味は、移動するためである。しかし、わざわざでこぼこな道を歩く意味はあるのか。さらに夜が来ることに意味はあるのか。

①②の文章は理解しやすく、③④の文章は難解に感じられた方が多いのではないだろうか。これらを分け隔てるのは、意味の有無を感じられるかである。①②は意味がはっきりしているのに対し、③④では、意味がはっきりとしていないのである。

ここで話を自然と人間に戻すなら、私たちにとって、自然は意味が分かりづらい存在なのである。そのため私達は自らの意味理解の範囲に自然を制御しようとする。コンクリートで道を平坦に舗装し、電球を開発し、電灯を設置した。部屋はずっと同じ明るさで保たれ、昼夜という自然現象を無効化した。人々は予測可能な世界にいることを求め、コントロール下に置けない自然は排除されるか、隅に追いやられているのである。

人工物には、ほとんど全てに意味があると考えて良いと言える。それは上位者である人間が目的を想定してモノを作っているからである。では人工物に囲まれた世界(ここからは意味世界と呼ぶことにする)で暮らしていくとどうなるのでしょうか。私が最も危惧しているのは、人間の人間による支配である。これから先より純度の高い、もしくは完璧に近いほどの意味世界で生活していく場合、人々は集団的かつ大規模なニヒリズムの波に飲まれるだろう。自然物を限りなく排除していく先に待ち構えているのは、人間自身なのである。自然は我々にとって数多における無意味を提供してくれたが、人間の所在についても全く同じことが言える。無意味に対する耐性が失われた人々は、どのような反応を起こすのだろうか。ある者は、自らの意味のなさを実感し、自ら命を絶つかもしれない。ある者は、同じ理由で人を殺めるかもしれない。

上位の人間が下位の人間に対して意味、目的づけする時代が来るだろうか。形式的には平等をとりながらも、実際的には階級的であるような社会は想像されうる。ここで全く逆説的だが、ナンセンスを切り離していくことは、ナンセンスだと言えないだろうか。上の例は極端であったが、このような気配をほのかに感じないだろうか。私はこのような未来になって欲しくないと思っている。だからこそこの場で、可能性を示唆したに過ぎない。このような未来にならないためには、ひとりひとりが問題に目を向け、違和感に早く気づくことが必要である。

また日本ではまだ浸透していないが、自然欠乏症候群(自然不足からなる精神及び身体の不調)というような症例も確認されている。自然体験の重要性についてはまた別の記事でお話ししたいと考えている。現代は自然に触れる機会が少なく、この先さらに自分から動かなければ触れる機会は減っていくでしょう。特に私が懸念しているのは、子供たちの自然環境の関係である。このことも別の機会にお話しできればと思う。

今回は以上です。最後まで見てくださった皆様ありがとうございました。

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