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合理化、数値化が進む現代に対しての懸念と人間本性論

現在、世の中は大変便利になり、それに伴い、人間の機械化が進んできているのではないかと常々感じる。

人々はいかに効率的に物事を成すか、どれだけ数値に落とし込めるかに夢中になっているのである。

しかし私は、あの時代がよかったなどと申し上げるつもりは、一切無い。社会が形成されてきた後、完璧だった時代というのは、あり得なかった。かつて農耕が始まり、小さな村が作り上げられてから、都市化が進み大規模なコミュニティが出来上がった現代にまで、いかなる時代においても、それぞれ違ったような問題を孕んでいた。

この問題というのは、根本のミスマッチから生じる綻びである。であるから私達が直接にして感じられるような問題は、多くの場合、表面的であると言える。そして私はこの根本的なミスマッチが、人間における社会性の欠乏から生じているのではないかと仮説を立てた。ここで疑問を持たれた方も多いはずである「今こうして、社会の中で生活できているじゃないか。」というような反論が返ってくるのが、想定されるだろう。

では社会性があるとは、どのような事だろうか。さらに言い換えれば、人間の社会と他の動物の群れとの違いは何であるのか。少なくとも遥か昔から、クーデターやら、戦争やら、身近なところで言えば、いじめは無くならない。資本社会が問題としているのは、格差である。あなたが神様だとして、真に社会性のある生物を作ろうというときに、身内で削りあっているような生物を作るのであろうか。人間は社会性があるのではなく、群れの中でしか生きられないのである。ただ人間は非常に傲慢であるが故に、群れであることを認められないのである。社会と群れの違いは、規模間と少しばかり複雑に見える、というだけのことである。本質は違わない。

話が逸れてしまったが、では現代はどのような時代なのか考えていきたい。簡単にまとめるなら、「自由化」「多様化」だろうか。これにはしっくりくる方も多いのではないだろうか。戦後、権力構造から解き放たれ、人々は自由になれた気がする。しかしここでこう思うのである。「私のしたいことってなんだっけ?」これは、職業選択から休日何しようかな、という所に至るまで、我々の心深くに根ざした意識である。まさにサルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という言葉通りである。さらに多様化が進み、情報は溢れんばかりである。我々はぽっかりと空いた穴を何で埋めるべきかが分からない。であるから教育やメディアによる刷り込みによって、選択できる範囲をあえて狭くすることで対応していたのである。しかし現在はさらに情報過多が進み、やがて対処しきれなくなった。

合理化は宗教である。宗教の発展を考えて見てほしい。宗教の元となった考え方にアニミズムがある。アニミズムは木や海、自然物に対して精霊が宿っているとした、一種の信仰である。これは社会が形成された後に発展した概念である。人々は、それまでより大きなコミュニティを維持するために、このような信仰を作り出したのである。これ以降、いかなる宗教(仏教、キリスト教、イスラム教にしろ)は人々の生活の指針となっていった。宗教における最大の利点は、この自由の制限である。

では無神論者における、自由の制限を成してくれるものとは、いったい何であるのか。それは科学である。もちろん私は科学を否定したいわけではない。ただ事実として、人々は科学が提供する合理化と数値化、という物差しによって、自身の行動の選択肢を制限していると言えるだろう。その実に甘美な誘惑に侵されるように、人々は効率的であることに必死である。私から問いたい。「効率を求めた先に何があるのだろうか。」「その先にあるものこそが人間の本質とでも言うのだろうか。」少なくとも私はそうは思わない。なぜならば、最も効率的に人生を過ごすのなら、生まれたきた瞬間にすぐに墓場で首を切るのが何とも効率的である。このようなことから人間の所在について合理の上には立っていないことが分かるだろう。

科学はその蓋然性の高さから、圧倒的なまでの信頼を築いてきた。しかし私から言わせれば、諸宗教と何ら変わりはない。ここで蓋然性という言葉をあえて使ったのは、必然ではないということを言いたかったからである。「事実などない、あるのは解釈だけだ。」これはニーチェの言葉だが、言い得て妙である。科学が観測することの多くは、人間を出発にしているのだから、その範囲外は観測困難である。見えている現象のみを我々の枠組みつまり、因果という論理を通じて、正しさを演出しているにすぎないのである。このことについては、また別の記事でお話ししたい。

ここで家畜というのは、幸せなのだろうか。私には分からないが、社会が形成されてから、人々は常に制限と密接な関係であった。しかし現在は、表面的な自由によって、一見、制限が隠れているように感じられる。このまま時が進んでいけば、人々は飼い慣らされていることも知らずに、餌を食べ続けるだけの生活が待っているのではないか。もちろんこれは妄言であるから無視してもらって構わない。しかしよく時代の流れと人間の本性について考えて頂きたい。

では、我々は一体どうしたらいいのだろうか。どう足掻いても自由と制限の間を揺れ動く振り子の中で、負の感情を抱えてきたのだ。私から言わせてもらおう。「知ったことではない。あなたで考えなさい。」もし家畜になりたいというのであれば、私の持てる限りの答えを教えることができる。しかしここから先は自らの力で創造してほしいと私は願っている。

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