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理想

理想をひとつ書きたい。私はこれから色々なことを書くだろうが思っていることはひとつだ。もしもそういう理想の土地へ踏み入れたならば、よく反省しようと思う。数えるようにするのではなく、よく顧みられるように。私はこの逃れたい嫌悪のためにわずかばかりの作家性を帯びて作文してきた。時たまにこういう想像をする。もし人間が不平不満から解き放たれたならば、物書きはなにを書くのだろうか。書くことはあるのだろうか。もし不幸にも私の予感が的中したならば、作家が生産しているものとは一体如何なるものであるか。もしもこのことが私に存在の悪寒を強いてきたのだとすれば、甚だしい限りだ。物を書くという時点で既に転倒しているからして、それはある人が小説とは、人情や風俗を描くものだといっているが、作家がこれに打ち克つことは到底ない。いくら比喩に寄せたとて活字に性格を与えられた生命はもう死んでいる。しかしながら感嘆すべきはこの低体温でぎこちない有様の人間模様が後世に長きに渡って存在しているということである。ただ私はこういことを茶化していいたいのではない。ある人の名誉のために誤解を生まぬように説明したいが、私は小説に思想はいらないと思っている。それは小説が政治の道具にもなれば、懺悔録にもなり得ようが、一時の立場に甘んじて毀誉褒貶することは、即ち自己本位でしかないからである。自己本位に文章を書けば、人物が思惑通りに動くのは容易いことであり、その時点でその作家が書いているのは、人情ではない。人情を描くことはもっと困難である。氷のようにかたく冷たい文字から、たとえ比喩的であっても生き生きとした人物を描くのが小説の神髄であるというのならば、それは確かであるように思われる。であれば私の一縷の望みというのは、この方角だろうか。自分自身が悪寒をさせるならば、私は自罰的に取り組みたくなる。けれども罪悪感に酔いしれて破滅を選ばず、狂人に堕さない。たしかに私は罪人かもしれないが、実際の罪を知り得ない人間の罪悪が、如何なる罰と対等であるかを知り得るはずもなく、その評価を自分でしようなどというのは間違いであると思うのだ。私の行うべきは、幾つもの絡まった糸を解くようにして、その一本一本と丁寧に向き合うことであるはずだ。ある者は日記をしたためるだろう。そしてある者は人を愛するだろう、またある者は人を傷つけるのだろう。私は許された時間を使って、本統にか弱い心の、けだし純粋であるがゆえに歪められていないような存在の機微を文字にする。それは尊敬の文学である。

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