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無意味な仕事とは何なのか?②

無意味な仕事とはいったい何なのか、無意味な仕事は働く人にどういった影響を与え、そしてなぜそうした仕事が生まれ今もなお存在するのか、

第一回のブログでは、無意味な仕事の定義とそれが人に与える悪影響について書きました。

今回は書籍『ブルシット・ジョブ』を参考に、そうした無意味な仕事がどうして生まれてきたかを労働観の形成過程を切り口に書いていきます。

なぜ無意味な仕事が生まれたのか

図1

(参考:Workfrontの年次作業範囲レポート(2019、US Edition))

上のグラフはアメリカの事務職を対象にとった本業に注ぐ時間に関するアンケートです。
仕事のなかで本来の仕事にかけられる時間は2014年の45%から2018年には40%に減少しています。代わりに増えたのがメールや無用な会議、管理業務などです。

教員や、看護師でもペーパーワークやミーティングが増加し、本来の仕事にあてる時間が減少しているといいます。

なぜこうした無意味な仕事が意味のある仕事を食い潰す構造が広がっているのでしょうか。

学生バイトから見る雇用目的仕事の定義

営業職の知人は営業者に備え付けてあるGPSで営業ルートを管理されているらしく、常にサボっていないかを会社から監視されている気がして、ハードな打ち合わせのあとにひと休みするのも怖いと話していました。

本来、営業職は売り上げ目標という求められる成果が明確な職業のはずですが、それとは別に「所定の時間とにかく仕事らしいアピールをしろ」という雇用者からの要求を感じます。

著者は学生時代の皿洗いのバイトで、どれだけ早く皿洗いを終えられるかチャレンジをしました。記録的短時間で皿洗いを終えて休憩をしていると、「何をだらだらとしているんだ」と叱責を受け、時間つぶしの無意味な仕事を課せられたと言います。

早く仕事を片付けたところで早く帰れるわけでも、褒められるわけでもなく、むしろやる意味を感じない仕事が増えて、そのうえ楽しんでるふりをしないといけない。自ら進んで新しい仕事を提案して実行したところで、報酬も増えない。

雇用者が従業員に求めているのは、実質的な仕事を通じて生まれる成果ではなく、業務時間内は仕事があろうがなかろうが、忙しそうに働いているポーズをとりつづけることのようです。

このような仕事のことを「雇用目的仕事」と呼び、以下の特徴を上げています。

・他人による監督のもとで作業をする
・やるべきことがなくても働いているふりをする
・有益で重要なことでも愉しんでやっていればお金は支払われない
・無意味なことでも愉しんでできないことにお金が支払われる
・人の目があるところでは愉しんでいるふりをしなければならない

雇用目的仕事は効率的に働こうというインセンティブが生まれにくい構造になっています。
このような仕事観が、社会的に浸透した理由はなぜなのでしょうか。

時計の普及により人の時間が売買されるようになった

先ほどの例のように仕事をテキパキと片付けた後に休憩をしていると、
「時間を無駄にするな、ぶらつかせるために金を払っているわけではない」
と雇用者の怒りを買うのはなぜか。

これは雇用者が「自分の買った従業員の時間が盗まれている」と感じるから起こります。

マルクスの資本論では商品の価値とは労働時間の集積であると述べつつ、
その価値の多寡は他の商品との「交換」により規定されると述べています。

たとえば、Aさんが1枚の雑巾を作るのに1ヶ月かかったとしても、
その雑巾とBさんが5分で作ったコーヒーの交換が成立した時点で、
1ヶ月かけて作った雑巾は、5分でできたコーヒーと同じ労働時間分の価値であると違いの合意が成立したことになります。
実際に製作に費やした時間は商品そのものの価値とは切り離されるのです。

しかし、先ほどの雇用目的仕事では、雇用者が労働者へ支払う報酬は固定されているため、従業員が効率的に働くほど仕事が付加されて、成果そのものの価値は目減りしていきます。

いつから働くことが自分の時間を売ることになったのでしょうか?
「労働=自分の時間を売る」ことに変わったのは、18世紀後半の産業革命到来時に家庭用の時計が普及しだしてからです。

それにより、だれもが時間を一律の単位に切り刻み貨幣と引き換えに売買できるようになり、人々の認識も時間は過ぎゆくものでなく、支出する、節約するものに変わっていきました。

時間による労働の管理は、西洋の植民地支配に活用されたことをきっかけに、学校、工場労働者へも適用されるようになり、いつしか労働者も労働時間契約、時間外労働の賃金交渉など勤務時間中の時間は買った人間に所有されることを前提としたものになったのです。

仕事=罰、苦行という宗教観

この本では「労働は罰である」とするキリスト教の教義と、中世北部ヨーロッパの観念が、「労働とは苦行であり、喜びや快楽を犠牲にするものである。」という思想を形成したとしています。

中世ヨーロッパでは、仕事人生の最初の10年ほどを奉公人として使え、自立した大人と認められれば、結婚や親方として他者に命じる仕事が許されました。

しかし、18世期半ばからの産業革命をきっかけにそれまでの「親方ー奉公人」という仕事の関係性が「資本家ー労働者」に変わりました。そしてそれは一時的な奉公が一生を通じた奉公に変わることを意味しました。

親方として自由に生きることを夢見て、奉公人の期間を耐えてきたのに、
これはやっていられないと、若者は奉公を放棄し始めます。

農民や商工業者が中心をしめるピューリタンは若者の仕事離れを防ぐために新たな宗教観を作ることに迫られました。そして出来上がったのが、

「仕事とは罰であると同時に、贖罪である。仕事とは自ら進んで行なう苦行であり、それゆえそれ自体に価値がある。」

という宗教観です。

アダムが知恵の木の実を食べてしまい、罰として労働が与えられたという旧約聖書の教えに、仕事は自ら行う苦行である、という価値観を追加したもので、この労働観が西洋を中心に世界に広がったと推察しています。

意味のある仕事ほどお金を稼げない倒錯

コロナ危機をきっかけに「エッセンシャルワーカー」という言葉がマスメディアでよく聞かれるようになりました。

エッセンシャルワーカーとは市民の生命と財産を守るために働いている人たちのことで、保育士や介護職、看護師、農家、スーパーの従業員、バス運転手、消防士、救急医療スタッフなどの仕事のことを指します。

これまではそうした人たちの働きの結果として保たれていた均衡が、コロナ危機をきっかけに崩れた結果、そうした仕事の重要性を身を以て認識するきっかけとなりました。

その一方で問題視されているのがエッセンシャルワーカーの給与水準が低すぎるのはという問題です。この本でも「仕事が他者のためになるほど仕事への対価が下がる傾向にある」と分析されています。

そこに潜むメカニズムとはいったい何なのでしょうか。
それは先ほど書いた、「仕事とは自ら進んで行なう苦行である」という根強い仕事に対する宗教観にあります。

エッセンシャルワーカーは社会としてなくてはならない仕事で、
人々に貢献していることは明らかです。

しかし、「仕事=苦行」という価値観のもとでは、
社会に貢献しているということはその段階で「仕事を誇りに感じられる」という報酬を得ていると受け取ります。

「社会的に貢献できる仕事をもらっているのに報酬まで求めるなんて贅沢をいうな。」

というのが、ピューリタン的思想を持つ労働者の反応なのです。
やりたいことを我慢して、誰にも感謝されない惨めな仕事に従事した人間だけが、その報いとして金銭的報酬を受ける権利がある。

そうした労働感のもとでは
・社会に貢献できるが薄給な仕事
・何の役にも立たないが高給な仕事
その二つしか仕事の選択肢はありません。

労働とは罰であり苦役であるという宗教観が社会的に価値ある仕事は高い報酬を得てはいけないという倒錯した職業感に結びついているのです。


無意味な仕事が形成されたその背景について、価値形成の過程から見ていきました。次回は市場形成の過程から書いていきたいと思います。

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