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20221124ワークショップ④豊平

開催日時:2022年11月24日 10:00~12:00
場所:グレイスヴィルまいづる-東京(Zoomオンライン)
内容:
2人の参加者とそれぞれ砂連尾さんが1対1でワーク
1.Mさんが3分くらいで「協力できんわ」といって去る
2.Kさんと1対1で20分程度
3.KDさんと1対1で20分程度

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豊平豪(文化人類学・torindo)

 Kさんとはオンラインワークショップになってからとつとつダンスの常連さんとなった。だから、もう3年くらい、砂連尾さんとミラーリングを基調としたほとんど会話はないけど笑顔がこぼれる動きをしっかり続けている。

 グレイスヴィルまいづるでいつもKさんと一緒にいる浦岡さんからしても「とつとつに楽しそうに取り組み、満足し、充実感を得ているような目の輝き」がワーク中にある。

 石田さんのテキストにも「動作が変わるその時折に笑みを浮かべながらの『ふふふ』という声は、本人も知らぬ間にあふれこぼれているかのようなもので、こちらも見ていると沁み渡ってきて表情が緩む」とある。

 オンラインになってから、リアルに対面で大勢と一緒に行ってきたときとは違う、ほんとうに素敵な笑顔がみられるようになった。

 さて、今回、石田さんは大きな画面で、オンタイムではない、録画したワークショップを観た。そして「2人のダンスが終わるころには見ている自分も少し身体を動かしたような体感が今回はあった」という。「今回は」というところが重要な気がしている。今回は、ということは前回、前々回にはなかったということだ。何が違ったのか。

 大きな画面で、しかも録画だったために「じっくりみた」点が大事だったのかもしれない。そしてそこには石田さんの<映画を撮る眼>も欠くことはできないだろう。

 「動きを見ること」には、いまだ語られていない、自分の中でも整理できていない奥深さがあると思う。

 石田さんのこのことばに、ぼくは可能性を感じている。<とつとつダンス>において、ことばや身体については常々考えてきたように思うが、「みる」ことについてあまり深く考えていなかったかもしれない。そもそもぼくはオンラインになってからは「みる」ことでしかワークショップに参加していないのだ。

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 そして今回ぼくが「みた」もう一人の入居者KDさん。

 砂連尾さんは、日本舞踊を教えていたKDさんから、舞踊の一節だけでも、動きを引き出そうとするのだけれど、話は、繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 兄弟姉妹の名前の読み上げと、それにまつわる記憶が、さざ波のように寄ってはまた離れていく。「波が寄せては引く」という言葉で括るなら、それは繰り返しだけど、その内実にひとつとして同じ波はない。毎回寄せてくる強さも違うし、砂浜に描かれる紋様も違う。

 KDさんと砂連尾さんの話も繰り返しにみえるけど、兄弟姉妹の齢の順が変わる。KDさんの表情も毎回変わる。引き出される記憶も違う。その発話やしぐさの差異がミニマムミュージックのような心地よさを産む。

 考えてみれば、ことばや発話も身体を通して現象している。仮にパソコンで入力しても、そこにはキーボードに相対する身体があるし、紙に書いたとしても鉛筆の黒鉛を繊維に押し付ける身体がある。

 ことばもまたダンスなのだ。会話も意味のやり取りではなく、ダンスとして捉えてみれば、まったく違うコミュニケーションに思えてくる。砂連尾さんとKDさんとのことばの揺れはダンスだと思うととても心地よい。

 とすると、それらをみている「わたし」とは一体どういう身体的な現象なのか。改めて石田さんの問いが迫って来るのだ。

 実際に同じように身体を動かしているわけではないのだけど、こうした体感があるのは、なぜだろう。「見ている」だけでも、まるでそのものと一体となっていき、一方的かもしれないが自分の身体の延長上にあって一緒に動いているかのような感覚。

 夢中になってみている「わたし」とはなんなのか。今後も考えていかなければならない。

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