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『新版◎小説道場、第4巻(中島梓/光風社出版)』、再読了。

 やおい小説の大家、というか、始祖の一人が、”近頃の明るくらぶらぶなやおい”を認められない老大家に堕ちる、シリーズ最終巻。
 ・・・・・・というわけで、全般的に、感情的な文章になりますので、注意。

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 まず、”若い女性”が嘗められる時代があったこと、だからこそ、ヤオイの語源(と言われる)、ヤマなし、オチなし、イミなしが、存在した、という歴史までは、悲惨なれども意味と役割に縛られ、自分では合理的だと思い込んだ男性思考へのアナーキーな反抗の目があったことは、確実な事実としておきます。

 >去年は角川ルビー文庫の創刊をはじめ、JUNE小説、「新耽美小説」などがたいへんに市民権をひろげてきたように思える年であった
 次に、中島は、時代が変わりつつあることにちゃんと気が付いて、しかも、流行している作品の傾向は、彼女自身の持つ”ヤオイ”観と離れてきていること、それもわかっている、ここまでは、認めておかないとなりません。

 >いま、私はJUNEもの、というよりも「男どうしもの」をかくことに、そういうアナーキズムをまったく感じません。いや、そういうものを感じさせてくれない「男どうしもの」が多すぎる。市民権を得唖アナーキズムなどというものは言語矛盾です。
 内容が、彼女の定義とは異なっている。これは、いい。
 それでも、彼女自身は、自分の定義に当たるものを描き続ける。これも、いい。

 >でもこの十年間のあいだに、少女たちの認識はちょっとでも進歩したのであろうか。とても中島にはそうは思えない。むしろそれはいよいよ一段と昂進した、としか思われない。
 これが、いけない。中島が成長した(※小説を書き続けているのだから、当たり前)若しくは、その作品と比べたらまだまだ、なら良い。
 しかし、”致命的なギャップがある”とまで思うのなら、
「いっておかなくてはならない義務がある」などと抜かすのは、
貴女を、さんざん(※その作品を読まないどころか、他の作者の作品と間違えた奴までいて)嘗め腐り、若さを愚かさと決めつけた、”老大家”(※”老害”という言葉は、まだ、”環境”にしか使われてない頃)と変わりませんよ、中島さん、栗本薫さん!

 >だから、ヤオイをやって、「ただの男女関係のアナロジー」をやるんだったら、ヤオイである必要はないのである。
 ”男同士”を、”少女”が書くから、ヤオイである、という、中島なりの定義は良い。それを、死ぬまで(※もう、亡くなりました)書き続ければ良い。しかし、他人の作品を取り上げて(※自分より下手、という話なら、ともかく)「男と女がくっつく生物学的正しさへの反抗」という、価値観だけで、フェイク・フォニーと決めつけるとは、何事ですか。
 それじゃ、男らしさ女らしさ、というジェンダーを押し付けてきた、男性化社会と変わらないじゃないですか。

 また、未来から目線で、卑怯にも、糺しておくと、ジェンダーの押し付けには、反抗して、叩き潰してやろうと闘志を燃やす癖に、年齢や外見による固定観念には、貴女ご本人が捉えられておいでですね、中島先生?
 (※具体例は挙げませんが、配役の際に上げる実在の有名人の名前から、それが良く伝わってきます)

 >私の考えるヤオイというのは、こうしたコンサバティヴな結婚観、社会観、ジェンダー観、そして倫理観、といったもの自体に反逆するものである。
 ならば、その、貴女の考えるヤオイ観自体に、反逆する若者(や若くない者)も、また登場するのですよ。

 >まだ私は「まだ若い」のですが、もうヤングではない。だが、だからこそ、「もう若くない」ともいえるし「まだ若い」ともいえる――年寄りからみればまだ若く、若者からみればもう若くない、いまの私になったからこそ、私は、いまこそ過激でありたい。
 他人の押し付ける、”齢相応の振る舞い”に従う必要はありませんよ、当たり前です。しかし、だったら、”イマドキの”ヤオイ小説に対して、「外見だけ少女のまま、現状をそのまま受け入れるオバサン化」だの、ヤオイマンガを読んでは、「まともな日本語で書かれたものが読みたくなります」などと言うんじゃありません。
 自分だけ、年齢から自由で、他者には、”齢相応の/年齢不釣り合いの成熟/反抗心”を求めるならば、それは、”自分にだけ優しく、他者に厳しい”という最悪の存在ではありませんか?
 ”偉い作家”に、”偉い編集”に、(とっくに死にました)と言える貴女に、
俺は、生きている内に、「自分は正しいが、そうじゃない正しさもある」と考え直して欲しかったです。

 終わり。

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