見出し画像

泉御櫛怪奇譚 第二十三話

第二十三話『心の棘 衝動の傷』
原案:解通易堂
著:紫煙

――現世には、あらゆる言語が各所で交わされております。それは時に、依頼であったり交渉であったり……身近だと、感情であったり思想であったり、告白であったり。
唯でさえ溢れ続ける語彙の中で、自分の意思をそのまま伝えることは、実は貴方が実感しているより難しいのです。感情と語彙が噛み合わずに、時には無自覚に人を傷つけてしまったり、誤った知識を与えたりしてしまいます。
では、もし相手に謝った言葉を送ってしまったら……その一言で、誰かを傷付けてしまったら?
少しでも心当たりがある貴方は、是非、この物語を覗いてみてください――


 野分も落ち着いた秋の夕暮れ。とある中学校の放課後、下校時刻のチャイムと共に、女子生徒の悲鳴が校舎の外から響いた。悲鳴の直後、カレンは全速力で廊下を走り、昇降口へ最短距離で続く階段を駆け下りる。アジア系の褐色肌に独特のアフロヘアーが、浮かんだ風船の様にされるがまま、風に流されている。
(早く……早くしないと綾香が……っ‼)
 息を切らしながら、途中で濡らしてきたハンカチを強く握りしめる。カレンが上履きのまま外へ出ると、悲鳴の中心は騒然となっていた。
「アヤ、大丈夫?」
「無理‼ なんか肌がヒリヒリするの‼ 助けて」
 取り巻きや野次馬の中心で、悲鳴を上げた本人、綾香が蹲っている。学校で唯一のブロンドヘアーに、陶器の人形を連想する白い肌。誰が何処から見ても、二年A組の綾香であることは確認出来た。
 彼女の足元には液体が零れた空のボトルが転がっており、カレンよりも先に綾香へ駆け寄った教師が、素早くボトルを手に取って対処にあたっている。
「あっ……はっ……‼」
 助けようと走っていた筈のカレンの足が硬直する。言語化出来ない様々な感情がカレンの思考を泥の様に濁らせ、気が付いたらハンカチを握りしめたまま、校門の外へ飛び出していた。
 水を含んだハンカチは、走る度に水滴を飛ばしてカレンの制服を濡らしていく。カレンは握りしめた片手がどんどん半身を湿らせるのにも気付かず、無我夢中で走り続ける。
「わ、わた……の、っじゃ……ないっ!」
(私のせいじゃない。私はやってない! でも、このままじゃもっと綾香に虐められる……気付かれる前に逃げなきゃ‼)
 カレンは、何度も何度も呪いの様に自分に言い聞かせながら、誰にも見つからない商店街の裏路地まで走り続けた。


 カレンが咄嗟に逃げ込んだ先は、近所の筈なのに一回も入った事のない骨董品店だった。
(あれ……違う。ここ……櫛の店だったんだ……)
 初めて店内を見渡して、見た事のない数と種類の櫛を目の当たりにしながら、骨董品店改め、櫛の専門店に足を踏み入れた。
 客も店員も見当たらない不思議な空間。嗅いだことのない香りに嗅覚が麻痺して、彼女は一瞬だけ自分の現状を忘れて魅入ってしまった。
「いらっしゃいませ……」
「ひゃっ!?」
 カレンの耳元で、突然大人の男性の声がした。小さく悲鳴を上げたカレンが反射的に身体を避けて視線を向けると、自分よりも遥かに身長の高い男性が優雅に会釈をしていた。
(わ、お母さんより大きい人だ! 店長さんかな……怖い。どうしよう、また逃げなきゃ……何処へ? とにかく何か言って……何を言えば?)
「あ……のっ……!?」
 同時にあふれ出す思考や感情に、口が間に合っていない。何から話せば良いか分からないでパニックになっているカレンに向かって、男性はゆるりと視線を合わせて口上を続けようとした。
「お客様。ようこそ、ととや……」
 しかし、泉が最後まで喋る前に、カレンはキュッと胸元で手を握り締めると、身体を丸めて逃げる準備をした。
「きょれっ、きゃき……客じゃないです! 間違えました、ごめんなさいっ」
 踵を返して店の外に出ようとしたカレンの腕を、何かが優しく包んで止める。カレンが「ひっ!」と振り返ると、先程の男性が袖伝いに彼女の濡れた掌を掴んでいるのが見える。強く握り締められたハンカチの水が重力に流されて、肘まで捲った制服を濡らしている。
 カレンがハッと我に返って自分の全身に目をやると、 制服の至る所に水滴が飛び散りに斑の濃淡が滲み見え、特に握りしめていた利き手側は遠目で見ても制服の色が変わっているのが分かる程濡れていた。
(え⁉ 私、なんでこんなに濡れて……。あ、ハンカチ濡らしたのをそのまま振り回したから……。じゃあ、やっぱり綾香に薬品を浴びせたのは……綾香を傷付けたのも……‼)
 制服に纏わりついた痕跡が、カレンには一連の出来事が現実である証拠の様にも見えて、背筋に悪寒が走る。自分の置かれた姿にようやく気付いたカレンが、透けそうな制服を隠す様に身体を丸めて過呼吸気味に息を切らす。
「あ、これは……えっと……」
「焦らないで、ください……ゆっくりと、息を吸って……」
 上手く喋ることが出来ないカレンに向かって、男性が静かな声で囁く。言われた通りに深呼吸を繰り返すと、カレンの強張った身体が徐々に解れていくのが、繋がれた手から実感出来た。
(あ……いつの間にか息切れも治ってる。息がしやすい……でも、なんかもう、感情がグチャグチャだ)
「うぐ……ひっく!」
 落ち着いた途端、今度は涙が溢れてきた。男性はゆっくりとカレンの手から水浸しのハンカチを受け取ると、カレンの目線の高さまで身体を屈め、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫です。先ずは、警察に通報する様な……大事かどうか、お伺いしても……よろしいですか?」
「ズッ……い、いいえ」
 男性の質問に、カレンはか細い声で返事をしながら首を横に振る。
「この制服は、商店街の……さらに向こうの、中学校ですね」
「はい……」
「私は、解通易堂の……泉と、申します。貴方の、お名前は……浅沼様、で……いらっしゃいますね」
「なんで、名前……あ、上履き……」
 苗字を言い当てられたことにドキッとしたカレンだったが、足元に視線を移すと、自分が名前入りの上履きを履いたままであることにようやく気付いた。
(そう言えば、自己紹介してない。お店の人に自己紹介ってする? 分からないけど、泉さんの方から自己紹介してくれたし、一応名前は教えておこう)
「浅沼……浅沼、カレン。です……」
「カレン様。お召し物が、濡れておりますし……警察沙汰でないのなら、一度……こちらで休まれて、行きませんか?」
 泉が優雅な所作でカレンの手を引くと、帳場の奥を掌で指示した。気力も体力も思考力も疲弊しきったカレンは力なく縦に頷くと、重たい足を一歩踏み出した。
 帳場の奥は、客室と言うよりも少し古風な台所に見える。唯一余所行きに見えるのは、食卓のテーブルクロスが泉の来ている先住民族衣装と同じ、万華鏡の様な多彩な柄だと言う点だろうか。
(ケチュア族の服に似てる? お母さんの故郷の写真でしか見た事ないけど、この国にもあったんだ……)
 疲れ切って呆けてしまっているカレンを席に着かせた泉は、受け取ったハンカチを更に奥の部屋に持って行き、代わりに湯気の立つ湯呑を盆に乗せて戻って来た。
「ゆっくりで、大丈夫です……。これを飲んだら、カレン様に『何があって』『何故焦っていて』『何から逃げようとしたのか』……順を追って、ご説明願えますか?」
「私に、何が……」
 カレンは不思議な花の香りがするお茶を一口飲んで、もう一度深く息を吸うと、再び溢れそうになる涙をグッと堪えながら話し始めた。
「実は私……学校で、虐められているんです……!」


 実の所、カレンの表現には若干の齟齬がある。彼女は元移住民族の血を継いだアフリカ系アメリカ人の母と、極東の国で産まれた父との間に産まれた。母親に似た褐色肌とアフロヘアーの容姿は、父の母国では珍しく、カレンは幼少の頃から好奇な目に晒されていた。
 そんな彼女が自然と口数の少ない、本ばかり読む少女に育ってしまった小学生三年生の頃。カレンの通う教室に、綾香が転校してきた。
「アヤカ・コンスタンスです! フランスで産まれて、アメリカから転校して来たよ」
 黒板の前でお茶目に自己紹介をする綾香は、父親が海外産まれだから自分の髪はブロンドなのだと自慢した。陶器の人形の様な白い肌に、透明にも見える金色の髪。同じく海外産まれの母親を持つカレンとは真反対の見た目に、教室の生徒達は綾香の虜になった。好奇の目は綾香にとってスポットライトか何からしく、その姿が一層カレンのコンプレックスを膨らませていった。
 中学生になっても同じクラスの二人は、文化祭の準備でも違うグループで行動していたが、綾香がカレンに話しかける日々は変わっていなかった。
「ねぇカレン。やっぱりウチのクラスの出し物『お化け屋敷』にしたから」
「え⁉ 先週の話し合いで『脱出ゲーム』にするって……」
「だってぇ、謎解き考えるの面倒臭いんだもん。アタシが文化祭実行委員に頼んで変えて貰ったから、出し物変更の書類提出と暗幕の手配よろしく~」
 学年問わず人気の綾香は、小学生の時よりも自由な性格に育っていた。所謂クラスカーストの頂点にいる彼女に逆らう生徒は殆ど居らず、カレンも例に違わずその被害者だった。
(そっちのグループで変更したなら、そっちで書類だったり暗幕だったりやれば良いじゃん。せっかく、学級委員長と先生と一緒に、謎解きゲームのハウツー本買っちゃったのに……)
 モヤモヤした感情は、徐々にカレンの心を荒ませる。気を改めて、クラスでお化け屋敷の準備を始めたが、カレンの行動は綾香に逐一振り回されてしまう。
「カレン、看板にラメ使いたいから文化祭費用使っても良い?」
「カレン~。お客さんにスライムくっ付けて驚かしたいから、科学部のアンタが作ってよ」
「カレーン。お化け作るの飽きちゃった。そっちのグループやってよ」
(なんで、いつもいつも私に頼んでくるの? 取り巻きに頼めばいいじゃん。嫌がらせにしたって質が悪い……これが虐め、なのかな……)
 綾香に対する負の感情が、ドロドロとカレンを侵食していく。遂にその蟠りが爆発したのは、解通易堂に逃げ込んできた今日の放課後だった。
 カレンの役割は、クラスの出し物の準備だけではなかった。彼女は部活動の出し物の準備の為、二階の理科室で他の部員たちと薬品のチェックをしていた。綾香に振り回されながら、少人数の部員で理科室の展示品も作らねばならないカレンの心労は限界を迎えようとしていたが、敢えて自覚しない様に努めていた。
「あれ、水酸化ナトリウムのボトル……軽いですね」
 偶々手にしたボトルを開けて、薬品が触れない様に注意深く中身を確認する。目分量でも明らかに足りない事を部長に告げると、早速先生に確認して来ると言って理科室を出て行った。
 少ない部員でやりくりしている為、一時的に理科室の中がカレン一人になる。
(久し振りに、静かな場所で好きな事やってる気がする。楽しいな)
 自然と顔を緩ませ、ボトルの蓋を締めようとしたその時、開け放していた窓から心地良い風が室内に吹き込んでくる。
「……でさぁ……」
「え? 綾香の声?」
 風と共に流れ込んできた綾香の声に、カレンの肌が泡立つ。恐る恐る窓に近付いて校舎の外を覗き込むと、教室で文化祭の準備をしている筈の綾香とその取り巻きがサボっていた。
(やっぱり綾香だ……いつも気付いたら居なくなってると思ったら、こんな所に居たんだ。教室の反対側まで来てる所が性格悪いな)
 感情的になったカレンは、無意識に閉まりかけのボトルを窓際に置いて聞き耳を立てる。綾香達は中学生らしい他愛ない会話をしながら、校舎の壁に寄りかかって笑っている。
「いやぁ、お化け屋敷の方がテンション上がると思ってたんだけど、いざ準備すると面倒臭いね」
「ねー。予算も足りないし、クオリティ低いし……なんか萎える」
(予算が足りないのは、先に脱出ゲームするって決めた時に予算表を作って……てか、無理矢理お化け屋敷に変更させたのそっちなのに、そんな平気な顔で嫌味言えるの。なんで?)
 クスクスと嫌な笑い方がカレンの感情を逆撫でする。綾香は「だよねー」とブロンドの長い髪を指で遊ばせながら、一歩、壁から離れて取り巻き達の方を振り返った。
「アタシは、結構文化祭の準備楽しいんだよ? でも、カレンが空気悪くしてて教室に居づらいんだよね」
「分かるー。なんか当たり悪いよねぇ」
「同じハーフでも、綾香の方がモテるから妬んでるんじゃないの?」
 取り巻き達の適当な返事に、綾香はバカにした様に一笑した。
「えぇ? カレンそんなこと気にしてるの? ウケる」
 刹那、カレンの感情が一気に爆発した。
「――――っ!!」
 咄嗟に叫ぼうと窓に手を掛けると、身体より先にボトルが窓の外に飛び出した。空中で締めかけの蓋が外れ、薬品が夕焼けの光に乱反射していた。たった一瞬の出来事が、カレンには何分も長い時間に思えた。
(しまっ――!?)
 カレンが反射的に手を伸ばしたのと、綾香の頭に残った薬品が降り注がれたのはほぼ同時だった。
 下校時刻のチャイムと共に、綾香の悲鳴が校舎の外から響いた。悲鳴の直後、カレンは全速力で廊下を走り、昇降口へ最短距離で続く階段を駆け下りる。アジア系の褐色肌に独特のアフロヘアーが、浮かんだ風船の様にされるがまま、風に流されている。
(水酸化ナトリウム水溶液は、肌に触れると良くない。早く……早くしないと綾香が……っ‼)
 息を切らしながら、途中で濡らしてきたハンカチを強く握りしめる。カレンが上履きのまま外へ出ると、悲鳴の中心は騒然となっていた。
「アヤ、大丈夫?」
「無理‼ なんか肌がヒリヒリするの‼ 助けて」
 取り巻きや野次馬の中心で、悲鳴を上げた本人、綾香が蹲っている。学校で唯一のブロンドヘアーに、陶器の人形を連想する白い肌。誰が何処から見ても、二年A組の綾香であることは確認出来た。
 彼女の足元には薬品の液体が零れた空のボトルが転がっており、カレンよりも先に綾香へ駆け寄った教師が、素早くボトルを手に取って対処にあたっている。
「君、ここから近い蛇口を探して、水を用意してきてくれ! コンスタンス、目を開けるなよ。絶対にこの液体は目に入れちゃいけない‼」
 先生の切迫した声が、カレンの罪悪感を膨らませる。
「頭を下げろ。これ以上肌に液体を触れさせるな。髪が傷む方がよっぽどマシだ!」
「イヤッ! 先生早くなんとかして‼」
「あやか……。せ、せんせ……っ‼」
(どうしよう。謝らなきゃ……謝って……え? 私がやったってバレたら、今まで以上に虐められるんじゃないの? どうしよう……)
 助けようと走っていた筈のカレンの足が硬直した。
(ち、違う……私のせいじゃない! 私は、不注意でボトルを倒しちゃっただけ……そうだよ。何も悪い事してない。けど、どうやってそれを教える……そもそも私のせいじゃなかったら、言わなくてもよくない? え、どうする……助ける? 逃げる?)
「あっ……はっ……‼」
 言語化出来ない様々な感情がカレンの思考を泥の様に濁らせ、気が付いたらハンカチを握りしめたまま、校門の外へ飛び出していた。


 一通り経緯を話したカレンは、お茶をもう一口飲むとゆっくりと息を吐いた。
「私……綾香に初めて言われた一言が嫌いで……同じハーフなのに、正反対だねって……それで私、生理的に、綾香とは仲良くなれないって、決めつけちゃって……」
 カレンは堪え切れない涙を褐色肌の腕で拭うと、コンプレックスのアフロを気にする様に触った。
「性格も、言葉遣いも、何もかも真反対で……なのに、綾香はしょっちゅう私に話しかけてきて……ボトルを閉め切らずに窓際に置いて、うっかり落としてしまったのは、本当です。でも……落とした直前まで、綾香にイラっとしてたのも……本当、です」
 遂に嗚咽を殺して泣きじゃくってしまったカレンに、泉はポケットからハンカチを取り出して彼女に渡した。カレンは覚束ない手でハンカチを受け取ると、グシャグシャになった顔を拭きながら震えた声で本音を吐き出した。
「私……色んな感情が同時にあって……今、何を見て、どう動けば良いのか……分からないんです」
「ええ……そうですね」
 最後まで静かに聞いていた泉は、まるでカレンの告白を雑談の様な返事で返すと、ふっと裏口の扉を見ながら言葉を続けた。
「人間は、感情的になると……心と身体の視野が、狭くなってしまう……生き物です」
「生き物?」
 会話の意図が読み取れないカレンは、初めて真っ直ぐ泉を見つめた。改めて鮮やかな民族衣装は、行ったことも無い母親の母国を彷彿とさせ、自然と強張っていた心が解れる。
「生き物って……まるで人を、犬や猫みたいに言うんですね」
「そうですね。ですが、犬や猫は……家の中で誤って、床を汚しても……飼い主の顔に、故意に爪を立てても……命の危険を、感じない限り……逃げたりしはません」
「そ……れは……」
 咄嗟に目を逸らしたカレンに、泉はあくまで優しく諭した。
「勿論、人間とて……命の危険、つまり『恐怖』を感じれば……本能的に、逃げてしまいます。カレン様は、心が壊れる程の……恐怖を抱いたから、ここまで逃げて……きたのでしょう?」
「……はい、はい……!」
 何度も頷きながら、カレンは同時に薬品で苦しむ綾香の姿を思い出していた。
(水酸化ナトリウム水溶液……部活の先生は、少量だったら肌が荒れるくらいの危険度だって言ってた。でも、もしあの量が目に入っていたら、最悪失明したかもしれない……駆けつけてくれた先生は肌に薬品が付かない様に髪の毛に伝わせていたけど、時間が経てば髪だって傷んじゃうかもしれない)
「私……私は、自分勝手な理由で逃げ出しました。危険で言ったら、綾香の方が、よっぽど危ないのに……だから、やっぱり謝りたいです」
 初めて自覚した自分のもう一つの本音に、カレンはようやく身体の力を抜いて、最後に流れた涙をハンカチで拭った。
「謝って、それで……許されたい。お母さんの国の神様からも、綾香からも……」
 カレンの言葉に、泉は眼鏡越しで見守る様な笑顔を送ると、声のトーンを少し低くして語りかけた。
「もし、信仰や宗教が……この国と違っていたら、ここで懺悔することで……カレン様の罪も、晴れたのかも知れません。しかし、ここは……しがない櫛の店。カレン様は、自分自身が……今日の罪を背負い、生き続ける……責務があります」
「……はい」
「ですが……償い方次第では、その罪は……徐々に、薄れていくでしょう……例えば、もし綾香様の髪が……傷んでしまった、場合の……対処法を、考えてみる。とか……」
 泉はカレンからハンカチを受け取ると、代わりに一枚の櫛を渡してきた。木製だがしっとりとした手触りの櫛には二人の少女が描かれており、仲良さそうに笑い合っている。
(この女の子達、私と綾香とは正反対だけど……なんだろう。凄くしっくりくる)
「え、でも……櫛、ですか?」
 意図が分からず混乱するカレンに、泉は声のトーンを戻して説明を始めた。
「はい。薬品で、傷んでしまった髪を……元に戻す技術は、ございません。ですが、これから生えてくる髪を……以前よりも、綺麗にすることは……可能です」
「ああ! 償いの……一つの形……」
 カレンが前向きに悩み始めた様子を見た泉は、立ち上がって奥の部屋から彼女の乾いたハンカチを用意してきた。
「こちら、乾かしておきました」
「え、いつの間に乾いて……?」
「それと、こちらの櫛でしたら……そのままお持ち帰り、いただいても……構いませんよ」
「え、ええ!?」
 カレンは突然の情報過多にキョロキョロと混乱しながら、自分のハンカチと櫛を見比べた。
(綾香に謝る口実にはなるかな……お詫びの品っぽくて重たいかな? でも、こんな良い物をタダで貰えるわけ無いよね。考えなきゃ……考えて、考えて……)
 静寂が広がる。時間にするとたった数分だったが、その間、カレンは綾香が事故に会った時よりも冷静に熟考した。
「……あの。この櫛……要らないです」
 席を立ったカレンは、手に馴染んだ櫛を名残惜しそうに泉へ返した。一瞬だけ、泉の視線が切なそうに伏せる。
 しかし、カレンの表情は来た時よりも明るく、視線は真っ直ぐに泉を見ていた。
「あの! あの……『今』は要らないです。綾香とちゃんと、話して……それで虐めが悪化しても、受け入れたいんです。でも、もし……もし話して、綾香とその……仲直りが出来たら、二人で買いに、また行きます!」
「……そう、ですか……それは、それは……」
 カレンの言葉に、泉は穏やかな笑みを浮かべて、彼女から櫛を受け取った。カレンは「上履きのままなので、学校に帰ります」と言って泉に一礼すると、一度も振り返らずに解通易堂を後にした。


 あれからカレンの学校では、クラス内が分断して担任の教師が臨時家庭訪問に至る程の一騒動があったらしいが、中学校の文化祭が終わるとあっという間に秋の静けさが校舎を包んでいた。もう直ぐ街路樹の枯れ葉が全て落ち、本格的に北風が強くなってくる。
 対して、解通易堂は今日も変わらず、不思議なお香の香りを纏わせながらお客様をお待ちしている。泉が、二人の少女の柄を焦がしつけられた櫛を商品棚に置くと、店の出入り口が開いて姦しい声が入店してきた。
「ねーカレン。このモデルさんめっちゃ美人! カレンもバンダナしてみようよ」
 陶器の人形の様なブロンド髪の綾香が、一部だけ傷んだ髪を三つ編みで誤魔化してお洒落に見せている。カレンの制服を引っ張りながら、彼女に自分のアイフォンの画面を向けて画像を見せようと奮闘する。
「いっそ、ドレッドヘアーにしても良いんじゃない? ほらほら!」
「モデルと私を比べないでよ。そう言うデリカシーの無い所が嫌だって言ってるじゃん」
 褐色肌に黒髪のアフロヘアーを肩まで伸ばしたカレンが、綾香の手を引きはがし、恥ずかしそうに自分の頭を両手で覆って抵抗する。綾香は店の出入り口で立ち止まると、頬を膨らませて眉間に皺を寄せた。
「カレンこそ、ネガティブに受け取る癖止めてよ! 似合いそうだからオススメしてるんじゃん」
 懲りずにアイフォンの画面を向けて「ほら、コレとか可愛い!」と、お勧めしてくる綾香に、カレンはうんざりしながら手を伸ばして彼女の手毎アイフォンを覆い隠す。
「それより、店、入ったんだからもう少し静かに話して。恥ずかしい」
「はぁ? どうせアタシ達、黙ってても目立つんだから良くない?」
 2人は言葉こそ荒っぽいが、お互い目を見て本音を言い合っている様にも見える。そんな彼女達を微笑ましく出迎えた泉は、優雅に一礼をしてから店内に手を向けて歓迎した。
「いらっしゃいませ。ようこそ、解通易堂へ……私は、この店を任されております……泉と、申します」
 カレンが「ご無沙汰しています」と会釈する後ろで、綾香が顔を真っ赤にして泉に見惚れている。
「え……ちょっとカレン!? この人知り合い? 超イケメンじゃん‼」
「ちょっと、いきなり背中に引っ付かないでよ。動き辛いって……」
 2人の華やかな雰囲気が、店内に広がっていく。泉がそっと先程並べた少女柄の櫛に視線を向けると、櫛はそれに共鳴するように、そわっと動いた様に見えた。

【完】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?