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アート&ヴァルネラブル

 私は20世紀から今世紀にかけての現代美術の在り方に懐疑的です。人類学者のデヴィッド・グレーバーは近代は生産や労働において「無から何かを作り出す」ことにだけ価値を置き、生み出したものを維持することやケアすることの意味を貶めてきたと言います。例えば子供を育てることを社会から家庭内に閉じ込めて報酬のない女性の仕事としてきたことなどは端的なその現れでしょう。ケアの仕事における低賃金にもその影響は影を落としています。またそれは生産の象徴である物質への過度の信頼となり、同時にケアの必要な心的なるものへの軽視をも生み出しました。

この生産概念の偏りは現代美術にも強い影響を及ぼしています。現代美術こそ「無から何かを作り出す」ことに最大の価値を置いた際たるものではないでしょうか。その結果何が起きたか。驚きはあっても心を動かすことの少ない、文脈から一歩外れたらガラクタに成り下がる他ない物が、美術館やギャラリー、公共空間などにうずたかく積まれました。忖度なく言うなら、それらには肝心の内容がなく、空虚なのです。社会問題を語る美術も、作品そのものの内容の空疎さへのアリバイ作りであるようなものが少なくありません。内容とは観る人の心へのケアの強度によって測れると私は考えまていす。つまり作品が観る人の人生とどれだけ深く関係を結べるかに依っているのです。

「今は利益を得るのが第一で、人をケアするという行為の価値が低められている。そういう社会を、もう終えなきゃいけない」とグレーバーは死の直前に語りました。私は美術の分野でこの遺言のような言葉を受け取りたいと思います。美術もこの空虚な時代に終止符を打たなければなりません。そのために私が着目しているのがヴァルネラブル(vulnerable)という概念です。ヴァルネラブルは弱さや脆弱性という意味をもつ言葉です。ケアの重要性を理解するには、まず私たちの存在が、つまり私たち自身の心と体が、死の可能性にさらされた、弱い存在であることを深く知る必要があります。それゆえ弱さこそ存在に関わる創造の根源であることを美術家は知らなければならない。社会も美術も弱さを認めることを避けてきました。だから私たちには多くの仕事が残されています。

パンデミックが起こり、不要不急の外出や生産が制限された時、とめることができなかったのが人の命に関わるケアの仕事です。それによって私たちの社会の根幹をなしているのがケアに従事するエッセンシャルワーカーの労働であることが明らかになりました。美術は社会問題をただ表現するためにあるのではなく、社会の問題を自ら担うことができるはずです。人の心と共振することによって。


つよくいきることが
あなたをさいなみくるしめるなら
よわくよわくできるだけよわく
よわくいきることはおきびのような
ちいさなこころのほのおをたやさぬことだから

詩集「トトとコト」(田中重人著)より


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