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仲間について

自分が思ったこと、感じたこと言葉で伝えることは大切なこと。
感情表現も同じ。
幼児であれば、うれしい時には声を出しと喜び、おもしろい時には声を上げて笑う。悲しい時には声を上げて泣き、怒った時には顔を赤くして声を荒らげる。ごく自然な行動である。

思春期に差しかかるか、思春期まっただかなになると、なかなかこれができなくなる。授業中に手をあげて発言することも少なくなり、質問しても黙っている生徒が多い。

ところが、個人名が明らかにならないようにして書き込めるような仕掛けを作ると、発言しない生徒の中にはたくさん書き込むものも少なくない。つまり、自分の発言に対する周囲の反応が嫌なのかもしれない。

幼い頃であれば、その日に経験したことを家に帰ってからの母親や父親にうるさがられるほど話していたのに、そうなってしまうと親は面食らって心配になる。特に、いちばん上の子どもやひとりっ子の場合には特にそうだろう。

この人なら話を聞いてくれる、味方になってくれるという人がいて、自分の中に溜まっていることを吐き出せるのであれば良いのだが、その人がどう対応するかによって影響を受けることもある。カウンセラーさんのようにひたすら聴いてくれる方であれば、吐き出すことでまた頑張ろうと自分の行動へのエネルギーにできるのだろうが、ただ何となく同調してしまったり、同じ感情になったりするだけの相手であれば自分の中の感情が増幅されるだけではないだろうか。

むかしで言うガキ大将、ドラえもんでいうジャイアンのような存在は、遊びを通してお互いの気持ちの動きに触れ、いざという時には助け舟を出してくれる存在だったりする。しかし、集団の中でガキ大将的に振る舞っていた者が大きな弱みを曝け出した途端に、周りのものからの距離を感じって離れていってしまう例も少なくない。自分が通った中学校には3つ小学校から入学してきたので、それぞれのところから当時でいう番長的な存在のやつがいて、やがて仲良くなっていく。しかし、よその中学生とのケンカで負けたとかいう理由でその仲間から自然と離れていってしまったやつもいた。その番長的な存在の奴らは、今でも地元では仲間と繋がって仲良くしていると聞く。離れてしまうと寂しいものだ。

いま、目の前にする中学生の中にもジャイアンのような気質のやつがいるのだが、総じて周囲から煙たがられているように思う。少数の同調することが多い生徒どうしのコミュニティが乱立し、それらがつながることはほぼ無い。クラスで何かをしようとする際にも生徒は小さなコミュニティを優先し、全体のまとまりをなかなか作り出せない。小さなコミュニティが安泰であればそれで良いと感じてしまっているのではないか。小さなコミュニティの中ではどんな意思表示をしてもみんなが同調するから楽なのだが、それがほんの少し外とつながるとなると、腹の探り合いのようになってしまう。

本来、学校ではいろいろな仲間とのコミュニケーションを経験し、社会で生活するための基礎をつくるはずなのに、そんなことよりも日々の小さなコミュニティの安康ばかりに気を取られているように思う。そんな中で、教師はもっと生徒が人間関係を広げられるような仕掛けをつくれば良いのではないか。
席替えをする際に、視力が良くない生徒に配慮して前の座席を割り当てるのは当然だが、隣になりたい生徒や隣では困る生徒までアンケートで調べる先生が多いらしい。生徒が新しく人間関係を広げる機会を奪っているのではないだろうか。

人間である以上、喜怒哀楽の感情は誰にでもある。その表現がどの程度であるかの違いはあるにしても。それに気づいて対応してあげるのが年齢を問わず仲間なのだと思う。

担任であれば、クラスの仲間。

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