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30.ニート時代のはなし(さくら旅編)

1年半のニート時代は、旅行に明け暮れました。
目的は、美しい自然の風景を写真に収めることと、人に会うことでした。
この期間しかできないことをやり尽くそうと思っていました。

次に行ったのはさくらを観る旅です。

僕は花好きのオカンの影響を受け、小さい頃から花が好きでした。
自宅では冬を除いて常に何かの花が咲いていたし、オカンが連れて行ってくれる旅先でも必ず花の名所がありました。

そんな花の中で特別な花があります。
それは「さくら」です。
卒業式や入学式など異動のタイミングで咲き、花見というイベントも行われるさくらは、単に美しいだけではなく、多くの人の思い出と重なる特別な花だと思います。
もちろん、僕にとってもそうです。

さくらを救え

社会人2年目の時に『さくらを救え』という本と出会い、いつか全国のさくらを観て回り、最後に本書の舞台となる青森県の弘前公園のさくらを観に行きたいと思っていました。
それを3年越しに実現させようと思いました。

2004年3月29日に札幌を出発し、大阪、兵庫、鳥取、京都、奈良、青森の6府県を訪ねて4月22日に札幌に戻りました。
青森での行き先はもちろん弘前公園です。

ソメイヨシノ(鳥取) 03

鳥取 総合運動公園

ソメイヨシノ(播中) 03

兵庫 播磨中央公園

ソメイヨシノ(平安神宮) 03

京都 平安神宮

ソメイヨシノ(哲学の道) 14

京都 哲学の道

ソメイヨシノ(鴨川) 04

京都 鴨川堤防

チューリップとソメイヨシノ 02

京都 京都府立植物園

枝垂桜(嵐山)

京都 嵐山

阪急嵐山駅 01

京都 阪急嵐山駅

枝垂桜(円山公園) 05

京都 円山公園

清水寺 01

京都 清水寺

ソメイヨシノ(芦屋川) 04

兵庫 芦屋川

画像13

兵庫 阪急さくら電車

ソメイヨシノ(夙川) 01

兵庫 夙川

ソメイヨシノ(万博記念公園)

大阪 万博記念公園

ソメイヨシノ(姫路城) 03

兵庫 姫路城

ソメイヨシノ(平野神社) 05

京都 平野神社

ソメイヨシノ(嬉野台) 07

兵庫 嬉野台

ソメイヨシノ(桜ノ宮) 08

大阪 京橋

ソメイヨシノ(大阪城) 03

大阪 大阪城公園

ソメイヨシノ(万博) 07

大阪 万博記念公園(再訪)

東大寺大仏と桜 01

奈良 東大寺

鹿と桜 02

奈良 奈良公園

ベニシダレ(平安神宮) 32

京都 平安神宮(再訪)

ベニシダレ(原谷苑) 07

京都 原谷苑

ベニシダレ(京都御苑)

京都 京都御所

八重桜(造幣局) 52

大阪 造幣局通り抜け


旅のクライマックスは弘前公園です。

弘前公園の桜 07

弘前公園の桜 15

弘前公園の桜 30

弘前公園の桜 42

弘前公園の桜 60

弘前公園の桜 62

弘前公園のさくらは本当に見事でした。
見る者を圧倒する美しさがあります。
その美しさはどこから来るのかと言うと、枝ぶりと花びらの多さです。
弘前公園のソメイヨシノは横へと幹が伸び見事な枝ぶりを見せています。顕著に見られるのが外堀のさくら。シダレザクラのように下がって水面ぎりぎりまで伸び、10mほどある堀が花で埋め尽くされています。

さくらは一つの芽から複数の花が出て、通常は3~4個です。
ところが、弘前公園は5~6個出ているさくらが珍しくなく、花びらで空を埋め尽くすような姿を見せてくれます。
ソメイヨシノは病気に弱く、一般的に樹齢が60年くらいになると弱弱しくなり、花の付きもまばらでスカスカになってしまいます。
ところが、弘前公園のソメイヨシノは樹齢100年を越える古木が珍しくありません。
幹を見ると表皮がところどころ剥げ落ちたり、大きな空洞が開いていたりするのですが、その幹から若々しいツヤツヤした枝が伸びていて、その先からおびただしい花をつけているのです。
「老」と「若」が混在する『異様な』さくらなのです。

このようなさくらが見られるようになったのは、弘前公園特有の運営と管理がされるようになってからです。
他がそうであるように、弘前公園も戦中の疲弊をそのまま残し、土塁が崩れ、雑草が茂っていました。
さくらも花の数はまばらで幹枝ともに禿げあがり、風情のかけらもありませんでした。

昭和29年、公園管理事務所の初代所長として工藤長政氏が着任します。
着任当時、彼はさくらはおろか植物の素人でした。

しかし、図書館や専門家のところを足しげく通い、さくらを復活させるために次々と施策を打ち出していきます。
堀の浚渫、土塁の整備、芝生地の造成、掘り回りへの策の設置、車止めの設置、園内で経営している飲食店の撤去、さくらまつりの運営改革など数知れません。

現在のさくらまつりは、ほかの地域と比較して整然と優雅に行われている印象があります。
出店や催しものの会場は本丸から遠く離れた四の丸に集められています。
そのせいで、本丸や二の丸付近では、花見客の砂利を踏む音が聞こえるくらいです。
飲食が禁止されているわけではないのですが、そこには不思議な静寂が流れ、秩序が保たれています。

他の地域の多くは出店からの食べ物の水蒸気や匂いの中で宴会をする花見客の賑やかな雰囲気があると思いますが、その雰囲気とは一線を画しています。
しかし、弘前公園のさくらまつりもかつては利権が複雑にからみ合うイベントになっていて、出入りする暴力団ややくざも多く、出店の撤去を意図する工藤氏への抵抗は激しかったそうです。
彼が組の若いものとにらみあった場面を職員は目にしているし、工藤氏の奥さんは彼が腕を刺されて家に帰ってきたこともあったと話しています。しかし、それにひるむことなく、すごみを効かせて渡り合いました。

もう1つの大きな要因である管理方式は、今では「弘前式」とまで言われるようになっています。
その特徴は、積極的に剪定を行うことです。
これは「さくら切るバカうめ切らぬバカ」ということわざに反する行為です。
このことわざは、うめは剪定をしないと見栄えがよくならないが、さくらは切り口から菌が入って病気になるため剪定はしない方が良いと解釈されているもので、園芸を趣味としている人は誰もが知っている有名なことわざです。
そんな剪定を弘前では積極的にやっているのですが、それはある事件がきっかけでした。

昭和35年、本丸にあるシダレザクラが切り落とされるという事件がありました。
もともと幹にカイガラムシがついて、ほとんど死にかかっていたのですが、そのシダレザクラを作業員として公園管理事務所に入った小山秋男氏が、人の背丈ほどの高さからズバリと切り落としてしまいます。
工藤氏は小山氏に枝は切れとは指示していましたが、幹を切れとは言っていませんでした。
しかし、それを小山氏が勘違いして大なたをふるってしまったのです。
工藤氏は一報を聞いて現場に急行し、無残な姿になったシダレザクラの前で小山氏を烈火のごとく叱りつけました。

切られたそのシダレザクラは取り返しがつかず、そのまま放置されていました。
ところがそれが翌年の春に、切り口から勢いよく枝を出し、工藤氏を驚かせることになります。
樹はやがて元気を取り戻し、再び大きくなっていきます。

これをきっかけに工藤氏は積極的な剪定を実践して行くのですが、昭和40年に東京から弘前大学に着任した専門家である石川茂雄教授と後に大論争を繰り広げることになります。
石川教授は幹から直接出ているような枝をバッサバッサと切られている弘前公園のさくらの様子を見て不満を募らせます。

昭和48年1月29日の市民講座での講演で、その不満の矛先を公園管理者に向け「公園の職員はさくら切るバカうめ切らぬバカ、ということわざを知らないのではないか?このまま行けば10年で枯れてしまいます」と言ったのです。

この講演の内容が1週間後の東奥日報に6段抜きで掲載されます。
読者の反応は予想以上に大きく、その後市民を巻き込んでの「さくら論争」が繰り広げられることになります。
その論争の主役はもちろん工藤氏と石川教授です。
二人の論争は新聞だけでなくテレビでも行われました。
青森放送のニュースレーダーという番組で、アナウンサーの質問に2人が答える形で番組が進められました。
石川教授は冷静で言葉に余裕があったのですが、工藤氏は興奮し、ときおりアナウンサーの仕切りを無視し、唾を飛ばさんばかりにしゃべりました。
石川教授がチャキチャキの江戸弁で明瞭に話したのに対し、丸出しの津軽弁でしゃべったことも二人の対比をより鮮明なものにしました。
この番組を見たほとんどが、こりゃ、工藤さんの負けだなという感想を抱いていたと言います。

石川教授は昭和57年に弘前大学を退官し、弘前を離れています。
一方、工藤氏はさくら論争のあった春に公園管理事務所に入所してきた若者に「後は頼むはんで」と言い残し引退しました。
引退してからは公園管理事務所に顔を出すことも少なく、ましてさくらの管理に口を出すようなことはしませんでした。

工藤氏が後を託した一人に小林範士氏がいます。
小林範士氏は公園管理事務所に入って早々にさくら論争を見ています。
その様子を見て、「理論がなければだめだ」と感じたといいます。

工藤氏が始めた管理方法を小林氏などが踏襲し、さらに発展させました。
その結果、弘前公園のさくらは日本一とまで称されるようになったのですから、両者どちらの言い分が正しかったかは明らかです。
ただ、両者ともにさくらを愛するが故の発言であり、石川教授を非難するべきではないと個人的には思います。

多くの発明がそうであるように、さくらの管理方法も失敗から生まれました。
すでにある知識や理論を勉強するのはもちろん大切ですが、時には常識を疑い新たな試みにチャレンジし、実践により自らの目で確認することの大切さを物語るエピソードだと思います。

弘前公園のさくらが現在のような多く人を魅了するようになったのにはこうした歴史と人間ドラマがあったのです。
このようなことを知った上で弘前公園を訪ねると、より一層楽しめることと思います。


この旅でもたくさんの方々にお会いできました。

スクリーンショット (142)

改めて、ニートに会ってくださったみなさんに感謝です。

(つづく)


次のはなし

31.ニート時代のはなし(道東旅行編)
https://note.com/totoro0129/n/n640f667cc72c


<0.プロローグと目次>
https://note.com/totoro0129/n/n02a6e2bda09f


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