映画「関心領域」 - ユング心理学の視点から


氷山


こんにちは、灘田篤子です。
今日は、映画”関心領域”(原題;The Zone of interest)について話していきたいと思います。戦火のもと暮らした人々の話は、広島で生まれ育った私の関心領域です。戦争から帰ってきて人が変わってしまった兵士達に虐待された妻や子ども達が70年以上経ってもなお生々しく被害を口にし始め、世代を超えて受け継がれるトラウマ心理へ光が当て始められているようです。

この映画についてポッドキャストでの対談(ゲスト:NZ在住イラストレーター恭子さん)は

https://podcasters.spotify.com/.../episodes/with-NZ-e2lt9g4

対談の様子@Youtube https://youtu.be/kRV2yMuMCuY

映画「関心領域」(The zone of interest)の監督、ジョナサン グレーザー(Jonathan Glazer)はロシア・ウクライナ系ユダヤ人の血を引くイギリス人です。アカデミー国際長編映画賞を受賞した際に彼は言いました。

「私たちが過去に行ったすべての選択は、現在の私たちの選択を見つめ、反芻するためのものです。『彼らが当時何をしたかを見てみろ』といいたいのではなく、むしろ「私たちが今何をしているか」を見つめてください。私たちの映画は、人間性の剥奪(Dehumanization)が最悪の事態に至る事を示しています。それは私たちの過去と現在のどちらもを形成しているのです。」

この作品を、歴史上(歴史領域)に対する関心事として今の自分と切り離して見るのではなく、現在、今を生きている自分の領域、関心事として、作品の中に自分たちの個と社会、世界情勢の姿を見出してほしい、と彼はいっています。

ですから、今回は、ホス夫妻と私たちの心理の同一性がいかに象徴的に映画の中で描かれているか、という視点で書いていきたいと思います。

この映画のユニークなところは、加害者たちの姿に私たち個人や集団としての日々の加害性、攻撃性を見出させ、居心地の悪さを終始感じさせ続けるところです。これまで多くの被害者に寄り添い、観客が歴史上の被害者の心理に自分を重ねることができる歴史を元にした作品と一線を画します。

今この瞬間も会社、学校、家族内でイジメや虐待が起きていて、それを見て見ぬふりをしている構図が存在します。本心は隠しているし、自分はそんな人間ではないと思いたいけれど、都合が悪いことは壁を作って切り捨てて、知らない事にする、という受動的ながらも強烈な攻撃性(Passive agression)を私たちは内包しています。

音響担当のジョニー バーン (Johnnie Burn)は、丸の内ピカデリーで行われたインタビューにオンラインで参加し、「“無意識に過ごしていると人は慣れてしまう”ということを自覚しているのが大事なのかもしれません」と語っています。作品を通して聞こえてくる壁の向こうで起きていることを示唆する不快な音に初めの頃は不気味さを感じていても、映画が進むにつれて気にならなくなる、バーン自身も作品の編集をしながら体験したその現象を彼は指しています。

この”気にならなくなる” Normaliation(正常化)現象は、誰しもが持っている心理的防衛機能(反応)(Defencemechanism)で、日々私たちが無意識に使っているサバイバル機能の一つです。不快な音や状況をずっと不快だと感じ苛立ち続けていては、その場で仕事も生活も続けることはできません。こういうものなんだ、と意識的、無意識的に不快感、恐怖感、違和感などの感覚を麻痺させ、感じなくするのです。

セクハラ、パワハラ、DVなど不快な関わりをされていても、
近所の騒音がもうずっとうるさくても、
温暖化が進んで異常気象による自然災害に遭遇しても、
簡単に状況を変えられなさそうな状況にいたら、
いちいち声をあげて解決のプロセスを地道に重ねて行くとか、引っ越しをするとか、何かアクションをとったところで問題が解決するかも分からないなか、流れを変えようとするのは、ものすごい心理的エネルギーが必要だし、一人では立ち向かえないことが往々にあります。

しかし、あまりに自分の感情、感覚から無意識に逃避(Avoidance)や無視(Ignorance)し続けて、何もも問題なく過ごしているつもりで自分を騙し続けて生きていると、自分の心が死んでしまい、例えば鬱や摂食障害、依存症、人格障害、適応障害、生きづらさ、人間関係の問題など、何も問題ないとはいってはいられない状態に陥ることがあります。



例えばこの作品の中では、娘の一人が夢遊病症状を提示していたり、大人達が咳込んだり、眠れなかったりしています。
ユングは、私たちの心は、”意識、無意識”という”領域”(Zone)があると言っています。私たちが意識し、認識し、自覚している、思考、感情、認識を含む心の領域とは別に、忘れられた記憶、認識、感情、思考、価値観などが無意識の領域に存在しています。

ユングは、意識の構造を氷山に例えています。実際の氷山は水面から出ている部分より水面下の部分の方がとてつもなく大きく、しかも、地下で他の氷山と繋がっています。個々の氷山(実際船などで近くに行くと巨大な山のサイズに見える)は個々人の意識領域(Personal Conscious)。水面下の部分が個々人の無意識領域(Personal Unconsicous)で、一番深いところで他の複数の氷山と繋がっている部分が集団無意識領域(Collective unconscious)です。

私たちが、意識している、知っている、と認識している領域は、無意識の領域に比べるといかに小さいか、と言うことを象徴的に表しています。
例えば、ホス夫婦(ルドルフ&ヘートヴィヒ)の意識領域では、壁の向こう側では何が起きていることを知っていつつ、いわゆる ”望んでいた暮らし” を送っているつもりです。残虐行為が生活の一部である事が望んでいた暮らしであるはずがないのに、です。ルドルフは虐殺を指揮している自分に対する感情は無意識領域におさめ蓋をし、いい夫であり父親としての自分領域からは完全に隔離して生きています。

日々残虐な行為を遂行する自分に対する罪悪感、悲しみ、怒り、絶望感、などの感情や思考はルドルフの意識上には上がってきません。完全に無意識の層に追いやることで、この生活を続けることを可能にしているのです。

ヘートヴィヒはどうでしょう?彼女は近所の主婦フォロワーにアウシュビッツの女王と呼ばれることが嬉しく、何もなかった土地に使用人(囚人)たちを使って美しい庭をあそこまで作りあげたことを誇りに思っています。壁紙の柄や家具を選び、植える草木を選び庭のデザインを監修し、家族を思い、家族の世話をし、家事をこなし、物欲があり、流行りの髪型をし、次のバケーションを楽しみにして、と私達と何も変わらない一人の人間です。

あの家と庭、あのコミュニティーでの立場、Identityは努力して手に入れた彼女の全てでした。ですから、転勤によってそれらを失うことは絶対に避けたかったのです。夫のナチスにおける立場、夫の非人道的な行為により支えられている事実や、絶え間ない空気汚染や不快な音によって掻き乱される感情は無意識の領域に押しやられ、それらは”なんでもないこと”に彼女の中ではなっています。

川を流れてきた人骨、庭にまかれる灰、煙、銃声、鳴き声、叫び声、定期的に届く物品(息子の一人のコレクションになった人の齒、入れ歯)。

美しい家や庭をもつ家に住む娘、ヘートヴィヒを一時的に誇りに思った母親と、母親に褒められて嬉しい娘の間で、彼らの無意識におしやった感情やお互いに対する思いは意識化され、口にされることはありませんでした。私たちにとってこんな母子関係も特別なものではありません。

ある日ヘートヴィヒの母親は一方的に手紙を残し消え去り、ヘートヴィヒは手紙を読むや否や即座に焼き捨てます。おそらく手紙には認めたくない何かが指摘されており、母親がそもそもこの家を訪問した事実さえ記憶から消し去ります。それは、彼女なりの母親による拒絶によって意識化に上がってきた、闇に飲み込まれてしまうような絶望に陥ることを防ぐすべです。うまく無意識の領域に押し込みさえすれば、意識上では平穏な毎日を続けることができるのです。

浮気、横領など、パートナーの裏切りを知っても、これまでの生活を続けるために、知らないふりをして、パートナーとの話にもちださない、離婚などのアクションもとらない、そこに生まれた感情は、感じないようにする。組織が自分の価値観、倫理観と激しく対立することをやっている、と知っても、生活費を確保するために、そこは切り離して、粛々と自分に与えられた業務と責任を遂行する。

寓話で例えるなら「裸の王様」に描かれている心理構造と似ています。王様は自分が裸で歩いている、という事実を無意識のレベルでは知っています。感じていること、(風がじかに肌に触れる、とか、体毛が風に靡いている、とか、肌が布を感じない、とか)知っていることを無意識の領域に収めています。そうやって自分の意識の電源をオフにし、自分を自分で騙せたら、自分が高価な衣装を着ている価値がある存在だ、と”実感”できてしまうのです。

凄く悲しかったのに、凄く腹が立ったのに、そんなことないように振る舞っていたことに後から気づいたことはありませんか? 凄く嬉しかったのに、喜んではいけない、というストップがどこからか働いて、大して嬉しくもないんだけど、と言う振りをした記憶はありませんか?

次に集団心理学の視点からホス夫妻や私たちの心理、行動パターンをみていきたいと思います。人はグループ内にいる時、多くの場合、単独では通常しないような行動や反応を示します。ユングは人類学を参照しながら、集団が形成されると、その集団のイデオロギーがなんであろうと、脅しや何やらの圧力がかかっていようとなかろうと、その集団にいる一人一人の中で古代からう受け継がれてきた”群の一員”という感覚が発動される、と述べています。

例えば、ある鳥の群は、大空に幾何学的に美しいV字型を本能的に形成しながら飛びます。狼の群れは獲物を狙う時、本能的に戦略的にお互い協調する動きをとり群の目標を達成します。群の中での役割を教えられなくても代々時空を超えて刷り込まれた記憶によって行動化しているのです。
サバイバルのために私たちの意識の深いところに刷り込まれた直感、本能、アーキタイプは、今をいきる個々人の集団内での言動にも影響を与え続けています。

ユングは、集団の中でフォロワーになるということは、決定に対して責任を負う必要がないという感覚を持つことだ、と言っています。人々は自分たちのある種の理想をリーダーに投影することで、個人として負うべき責任から解放された感覚を得ることができす。そのことが、フォロワーに、無責任に逸脱した行動をも起こさせることを可能にします。私達は後々こう言うのです、「指示に従っただけ」と。

ユングはまたこのようにも述べています、グループを結び付けるものの 1 つはイデオロギー、信念体系だ、と。イデオロギーが安全感、重要性、道徳的正当性をもたらすため、グループの団結に貢献し、またグループメンバーも強力なイデオロギーを持つリーダーを求めるのです。

*イデオロギーとは社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系。歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系。観念形態。

壁の向こうで起きていることを、ホス夫妻の意識意図的に知らないこと、あるいは自分たちとは関係ない領域の出来事にしています。個としての責任を放棄して、彼らの意識はこう言うことができるのです「指示に従っただけ。」

彼らの無意識の領域では、事実を知っているし、全否定しなければならないほどの抱えきれない感情を持つ人間としての拒否感情だって感じている。ただし、無意識の領域内にそれらをとどめていることすら意識化されていないので、彼らの意識は内面のぐちゃぐちゃを言語化できないし、だからそのことについて誰かと対話することもできない。

私たちは、誰しもが、何らかのグルーブに属しており、グループを作り、属すること自体に善悪はないことをここで強調しておきたいと思います。学問は、人間の心理を批判するためのものではなく、私たちがより理解を深めるため、自分を見つめ、リフレクトするため、の道具です。どういう性質のグループに属しており、どんな性質のリーダーとどんな関係を自分は構築し、グループの中で自分はどう存在しているのか。そんなことに注意をはらい、フォロワーである事、グループリーダーである事、そこで抱えている感情を”意識の領域”に持ち上げてみることに意味があります。

例えば、透明なガラス瓶の中にいろんな種類のお菓子(グミ、柿ピーナッツ、豆菓子)が入っているのを想像してください。お菓子は、そのままでは瓶の中に入っているだけです。ガラス瓶がもしぐるぐる同じ方向に揺らされたら、遠心力が働き、全てのお菓子は同じ方向に動き、動きは加速します。この状況になると違う方向に動く余地はありません。ガラス瓶が縦に振られたら、それぞれが宙に浮き、ぶつかり合い傷つけ合います。あたかも、不安、怒り、不快、なバイブレーションにより右往左往し、正気を失って当たり散らしているかのような動きです。中にはガラス瓶から飛び出て(自分の意思で?あるいは排除されて?)いくものもあるかもしれません。

ガラス瓶を操る力に対して私たちはいかにもろいのか、
いかに簡単に我を失いやすいのか、ということを象徴的に示しています。

私たちを脱力して踊らせる力は何なのでしょうか? 
それは、わかりやすいスローガンだったり、聞こえのいい謳い文句、プロパガンダ、偏ったカリスマティックリーダー。あるグループが民衆を不安にするような情報を流し、民衆は不安になり、抱えきれないその気持ちを社会や隣人に投影し、内戦は始まります。

ホス夫妻は、この瓶の中にある分子と同じくらい外からの力に対して受け身です。無抵抗にガラス瓶の内側を他の同志とともに同じ方向にぐるぐる周り目が回って思考ができない状態のようになりつつ、異質なものを排除しなければ自分たちの身が危ない・排除すればより良い世界がもたらされる、というスローガンに不安な気持ちを掻き立てられ、異常な残虐性を自分と同じ人間に向けて放っています。

フォロワーは、自分にとっての理想(Ego ideal)、をリーダーに投影し、自分の魂をリーダーに預けるのと交換に、リーダーのシャドウ(自信のなさ、心の中の虚無感、劣等感)を引き受けて行動化している、とも言えるのかもしれません。


身の危険を犯して囚人のために林檎や梨を土の中に埋めているのは、ホス家族につかえるポーランド人の12歳の少女、アレクサンドリアです。ジョナサン グレーザー監督は、この作品を彼女に捧げています。暗闇の中で感熱カメラのみが捕えることができる彼女が象徴するものは、闇の世界で人間が持ちうる光であり希望です。映画の中では、唯一彼女だけが壁の向こうで起きている耐え難い事実に対して行動を起こしています。(実際には、当時囚人達を助けるコミュニティー ”the Home Army” 後の ”the Union of Armed Struggles” が存在していて、彼女はその集団の一員でした。)

彼女が抵抗運動中に土の中から見つけた缶の中に、アウシュビッツに囚われていた ジョセフ ウォルフ(Joseph Wulf)が作詞作曲したSunbeamの楽譜があり、映画の中ではウォルフ自身の歌声が使われています。https://youtu.be/Kgs_a5QeKec?si=00G8JC_skN8eltcB 
*(歌詞日本語訳)太陽の光、明るくて暖かい/体、老いも若きも。そしてここに囚われている者たちよ、私たちの心はまだ冷たくなっていない。ここに投獄されている私たちは、夜の星のように目覚め、魂は燃える太陽のように燃え上がり、痛みを引き裂き、打ち破る。間もなく、私たちはその揺れる旗、これから来る自由の旗を目にするでしょう。

囚人達から、毛皮のコートや口紅、ダイヤモンドや入れ歯、などの物は奪えても、音楽(彼らの言語であるYeddish語で書かれています)は奪うことも焼き捨てる事もできず、今も生きつづけています。

ある夜、ルドルフがよき父親らしく娘たちに「ヘンゼルとグレーテル」の物語を読み聞かせをしています。グレーテルが魔女をオーブンに押し込み、ドアに鍵をかけ、その後ヘンゼルを解放すると、彼らは「喜びの叫びを上げて神を賛美しました」とルドルフは読みます。子ども達を捕え、グレーテルを囚人のように働かせ、ヘンゼルをオーブンで焼いて食べようとした魔女(ルドルフ)は、グレーテルの機転により死に、森の中の魔女の世界は終わります。象徴的には、ルドルフは物語を通して、娘に彼の壁の向こうでの姿を語り、彼の結末(戦後アウシュビッツで絞首刑になります)を予言しているシーンです。

ただ、娘は結末を聞く前に眠りに落ちています。物語について親子の間で会話はなされません。これも彼女の父や彼らの生活の真実を知りたくない関心領域に対する心理的防衛反応であると象徴的にはとらえることができます。


映画の最後辺りのシーンは唯一、象徴的にルドルフの深層心理がうっすらと表層に現れています。ルドルフが螺旋(らせん)階段を下りながら、廊下の踊り場で時折立ち止まり、咳き込み、吐き気をもよおします。”無意識の領域”に押し込んだ感じたくない感情、認めたくない事実や認識をルドルフの体は症状として現しているのです。螺旋は、心理的プロセスや物事の展開の道のりを象徴的に表しており、ルドルフが一人ぽっちで真っ暗な闇へ落ちていっていることを表しています。

最後に、この作品では音楽がブックエンドのように使われています。最初の美しくのどかなピクニックシーンで幕開ける前とルドルフが螺旋階段を降りていった後に、とてもパワフルな音楽が使われています。あたかも、この作品の中の人々の心理を象徴するような、そして、彼らのその後を象徴するような。

「関心領域」はイントラパーソナル(自分と自分の関係、やりとり)とインターパーソナル(自分と他者との関係、やりとり)どちらもを指していると言えます。自分の中にもいろんなアイデンティティーの自分が存在し(親衛隊、ボス、部下、父、夫、Nature lover, 雇い人。母、妻、娘、雇い人、加担者、地域のまとめ役。)、自分の中でも相反する、あるいは共鳴し合う様々な感情や思考、直感が存在しています。

それらをどう統合(Integrate)するか?
相反する要素のテンションを目を逸らさずにどう抱えるか?

自分の内面世界の特定の領域にしか関心か持たないことで、ホス夫妻のように自分自身を自分が見失っていることに気づかない命を生きるのか。自分のの内面世界への関心領域を広げてみると、外の世界との関わり方もおのずと変わるかもしれません。

それでは今日はこの辺で。 
またお会いしましょう。
#受動的攻撃 #無意識 #集団心理 #シンボル #象徴的描写
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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM 音楽療法士(GIM)のつれづれ totoatsuko.exblog.jp 


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