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「姥捨」 太宰治 感想文

何度か読んでみたが、どうもしっくり来ない。
嘉七を好きなれない。

愛していると言いながら、最後には手に負えないと、かず枝を見切って叔父に一切を頼むという、言い訳をしながらの逃げ口上に、賢い悪さを感じた。

人はこんな恥ずかしいものを持っている、とあらわに表現出来る作家は、それだけですごいのかもしれない。


二人共フワフワしていて、とても「死」の現実を実行に移す前とは思えない。床に入ってすぐ雑誌を見るかず枝には、この世から離れる実感を感じない。何事にも無頓着なのに、夫への仕返しに不埒な行為に陥ったのだとすれば、愛しているのはかず枝の方であると感じた。

映画館で手を重ねる部分は、嘉七のうそぶく姿のようで、ぞっとしてしまった。
「世話になった」という言葉は、妻であれば許せない。女性として魅力のない証明のような表現であり、これもまた言い訳に聞こえてしまう。


この作品は、太宰先生の実話であれば、尚、読み手に正直に惨めさが伝わってしまい、心の嘘も読者が理解してしまうとすると、それを恥ずかしみもなく伝えてしまうのが作品の魅力なのかもしれない。

しかし最後まで、嘉七という人間が嫌だった。

引用はじめ

「ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが俺の手にあまる。おれは無力の人間だ。おれは一生、このひとのために、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。わかれよう。おれは、おれのちからで、つくせるところまで尽くした。
その時はっきり決心がついた。
この女はだめだ。おれにだけ、無際限にたよっている」新潮文庫 p.44

引用おわり

また別の女性に逃げていく口実、理由、言い訳に聞こえてしまった。

人に頼って生きたい人間が、頼られる重さに耐えられないという表現に思えて仕方がない。

そして、女性として自立した人とやがて心中してしまったのか。

「姥捨」とは嘉七のことだったのではないかと感じた。

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