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「海の沈黙」  ヴェルコール 感想文

愛する祖国を破壊している敵が、自らの生活圏に入り込んで来ることなど、到底想像もつかないことだ。
この小説はそんな予想外の出来事から始まる。

1940年にナチス・ドイツがフランスを占領した。
1941年11月、「接収」というのではなく、ただ、二階にドイツ軍の将校が六ヶ月滞在するという、これはもう驚くべき事件である。

ノルマンディー上陸作戦までのフランス国の苦悩を思った。

「沈黙」によって、緊張と拒否と抵抗を表していたこの家の住民であるフランス人の老人とその姪。
彼らの心が、表面に現れることなく、日増しに将校への興味と、彼の偽りのない姿に静かに心揺れ動かされて行くというストーリーであり、終始、静謐の中で起こる熱い内面の心の動きの変化にとても読み応えを感じた。

「沈黙」を破ったのは、老人が 「お入りなさい」と初めて発した言葉と姪がラストに、「ごきげんよう」と声を上げたことだけ、その熱く込み上げるような沈黙の中の後悔の念が、この小説のテーマなのだと思われた。

この作品を読む前に、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「海の沈黙」の映画を観た。
白黒の画面は、ひたすら重く暗く、長い沈黙と緊張の連続のような、ほんのわずかな表情も見逃せなくこちらも張りつめた。

将校、彼が常識人であるのは、毎晩繰り広げられる一人語り以外は、殆ど住人に迷惑をかけないこと。
どれだけその時のフランス人の心が傷ついているかを知っているかのように。そしてその声も繊細な羽音のように優しいのだ。
彼自身、脚の膝が曲がらないという悲しげな傷跡があった。

誰が入り込んできても生活を変えないという二人の信条に、彼は立ち入らないこと、毎日階下に降りて繰り広げられる「独り言」は、彼らの返答や賛同や気を惹こうとすることすらしない、全くの一人芝居。
それらは二人への励ましであったのだろうと思われた。
静かに「おやすみなさい」と言う恒例の言葉がとても切なかった。

将校の父が、結婚すればいいなと思った娘が、散歩の途中、刺してきた蚊の脚を一本ずつもぎとった姿を見て、その時のドイツの姿と同じであることを、それらは受け入れられないという、彼の気持ちが明確なことを語った。しかし彼はとても葛藤していた。

彼のこの家での軍服姿はやがて私服に、フランネルのズボンに変わっていった。自分には軍服は似合わない、相応しくないことも理解していた。

声を発しない、全く台詞がなくても、伝わってくる緊迫感と動揺。
音のない世界に微かな表情の変化を見つけた。老人が姪の心を見抜こうとする語りを頼りに。

将校はいつも姪の顔、その横顔を見つめていた。姪の内面に彼の愛するフランスの全てがあるように感じていたのかも知れない。映像の横顔の美しさは完全なものだった。


将校が、彼のその本質が道徳的な人物であることを知れば知るほど、「沈黙」という行為が愚かであることに二人の思いが及んでいき、画面からも小説からも同じ痛みを感じていった。

国同士ではなく、あくまでも人間同士なのだ。


「しかし、この部屋には魂があります。この家全体に魂があります」(岩波文庫 p.24)、
将校ヴェルネル・フォン・エブレナクは、フランスを愛し、その文化をそしてこの家、この居間を愛していた。
将校が最初にこの部屋で見た、天使の彫刻、その天使が、美しい姪の澄んだグレーの瞳に重なったように思え、その神聖さは、神ように眩しかったのだと思われた。


引用はじめ

「時々この沈黙が部屋を襲って、呼吸のできない重いガスのように、隅々の奥のほうまで充満するのを見ている時でも、三人のうちで一番楽にしているのは、確かにあの人のようであった。そういう時には姪をじっと見ていて、最初の日からその顔に示した、ほほえんでいながら、重々しい是認の表情を保っていた。私は姪の魂が自身で拵(こしら)えた牢獄の中でじたばたしているのを感じた。そのさまざまな兆候から見取ったが、ごく些細な兆候は指のかすかな震えとなって現れた。」(p. 33.34)

引用おわり

姪の「指のかすかな震え」、姪の内面を毎日表情や仕草から観察し認めていた老人。
詳細にわたる文章の素晴らしさ、その繊細さが胸を打った。

「沈黙」の愚かさを、老人と姪が心の内でお互いに問いかけているような、穏やかでありながら緊迫する毎日が、心を刺すように深く入り込んできた。

いてほしくない存在が、いつかいないと落ち着かない存在へと変わっていった。

《ああ、光が》、姪の瞳が眩しすぎた、二秒間。

映画では、ラストに、灰色の姪の瞳がクローズアップされるのだが、モノクロながらあまりの美しさに驚愕した。

ラスト、将校はドイツの本当の目的が「破壊」と「搾取」であることに幻滅し、この場所を出て東部戦線で戦うことを選ぶのだった。

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