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「二人の友」 森鴎外 感想文

 突然、従学したいとやって来たF君、狂人だと思われたがドイツ語に造詣が深く、「私」の彼への評価は重かった。
しかし、お金も住む場所もない彼に、「私」の中で彼は「平凡な徼幸者」の認識が映ってくる。
 
二人の関係が深まって行くに従って、 その「徼幸者」の認識が払拭されいて行く様子が徐々に描かれていて、この関係性がとても良かった。

 どんなに何かに長けていても、突然の来訪者に私自身そこまでは関われないと思う。やはり猜疑心が前に出てしまう。

「私」のこの冷静さと嘘を見抜く本能は詐欺師をも許さない、ますます尊敬に値する人物に二人は惹かれているのだ。

F君はひたすら勉強を深めたい続けたい一心で衣食住は二の次、宿代は払えども着るものはなし、その姿は、真の研究者や芸術家を思わせる。 
ドイツ語しか見えなくて、きっとその暮らし方を苦しいとも気付いていないように思われる。大事な本が目の前にあれば満足なのだ。
家族や夫だったら少々厄介である。

「私」とF君のドイツ語の知識に相違があり、互いに得る事や間違いに気づき合い、時には初めて聞く術語などもあり、「私」は彼が来るのを待つようになる。

この部分がとても良い。
F君の突然の来訪からは想像がつかなかった意外な親交は自然な関係の積み重ねで、お互いのさりげない信頼と「私」への尊敬の念が深く、とても理想的で、このような友との時間が生きて行く上でとても大切でかけがえのないものだとしみじみ伝わった。

引用はじめ

 私はF君の徼幸者の一面があると思っていたので、最初から君と交わるに、多少の距離を保留して置くようにした。しかし相識になってから時が立つに従って、この距離が段々縮まって来た。

引用おわり

距離を縮めたのは、彼が「童貞」であったこと、芸者の誘いがわからない純粋さを持っていること、「譃のために詞を設ける程の面倒をせぬ人」であったことなど、この鷗外の真面目な捉え方は鷗外自身の純粋さをも表していて清々しい。

芸者のことばをまともに受ける純粋なF君が、結婚することには遠く結びつかない気がして、この急展開に驚いた。

結局、人の良い安国寺さんに、両親への結婚の承諾を伺いに郷里に行かせる。
何とも肝心なことは人任せにするF 君だが、二人の関係は微笑ましい。


F 君のドイツ語の教え方に少々苦しむ安国寺さん、やがてなんとなく遠のいて行く二人。

そして、「私」も宣教師にフランス語を学ぶことで、だんだんとF 君との距離が離れて行く。
友達とはこのような形でいつか会わなくなるものである。あのような楽しい束の間の時を共に過ごして、やがて突然別れが来たりする。何も約束もせずに。

とても淋しい。F君の死はとても悲しかった。
友人の死はとても遠くて、またとても近い。時間が経てばもっと近くに存在を感じてしまう経験がある。その悲しさは重く苦しい。

突然現れて、去って行く。F 君はなんと短い人生だったのか。だから余計に心に残る。


「私は決して徼幸者に現金をわたさない」 
凛とした鷗外の判断力と態度、学問好きの若い二人へ向ける優しさ、かけがえのない友情の時間が描かれていて、素晴らしい鷗外の人間性を感じた。とても素直な気持ちにさせられた作品だった。

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