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「山科の記憶」志賀直哉              感想文


「他の女を愛し始めても、妻に対する愛情は変わらなかった」新潮文庫p.258
そこに偽りはなかったのか。

「マディソン郡の橋」、主人公の普通の主婦もそうだった。ゆきずりのカメラマンと、一夜の激しい恋に落ちる。

夫が亡くなるまで愛し続けるが、カメラマンのことも愛していた。

しかし夫には亡くなるまで、その夜のことは秘密にしていた。
そして、たった一夜の出来事に想いを馳せる。

映画や小説であれば、美しく儚い、憧れすら感じるお話なのだが、夫にしてみればとんでもないことてある。私が夫の立場だったら許せないと思う。

妻であったとして、たとえ夫と違うタイプの人に出会ったとしても、きっと「抑制」するにちがいない。そんな勇気も持ち合わせない。

しかし、人はみな自分本位なのである。

本心を夫に伝えなかった彼女の生涯。

夫は本当に幸せであったのだろうか、という後悔に苛まれていたにちがいない。

人間であるから、好きという気持ちは止められない。
しかし、家庭を守ることと自分に正直に生きることの両立は、やはりありえないのではないかと思う。そこが複雑であり、心の葛藤は苦しい。

この小説で気になったのは、作中の「稀有だということが強い魅力となって、彼を惹きつけた」と、女性にのめり込む姿である。
「怯(ひ)けた心」を持っていながら、自分を抑制することなく、「妻を愛しているのだから」と安住し、自らを正当化する、さらに楽しんでいるようなところが腑に落ちない。やはり妻の立場に立ってしまう。

片目だけで睨む妻の姿は、確かに痛々しく惨めで、この時の妻の心情が見事に伝わる場面。

家庭や妻を守りたいのなら、その不埒な姿を最後まで隠し通し、隙を見せないで、生涯重い荷物を背負って行く生き方もあるかもしれないが、それは妻を欺く生き方であり、心の澱みが残る。
妻に甘え過ぎている夫の姿を「好人物の夫婦」にも感じた。

正直にも程があるが、こんな身勝手な夫の正当性を文章にしてしまう志賀先生が凄いと思った。ご自分の事であれば尚驚く。

もし情熱が浮気相手に傾いているのなら、家庭を捨てる覚悟も必要であると思うが、いつも都合よく生きている。

どちらも円満になどとはありえないと思うのだ。

妻も本当に医者を愛してしまったら、家庭から出ていく覚悟で愛すればよい。
そうならないように、それぞれが自分を「抑制」して生きなければならないと思う。時には諦めが助けになる。


引用はじめ

「彼は自分のいう事が勝手である事は分かっていた。しかし既にその女を愛している自身としては妻に対する愛情に変化のない事を喜ぶより仕方がなかった」p.260

「彼は一時的にもそれを承知するより仕方がなかった」p.267

引用おわり

身勝手さをわかっていながら、愛しているという真実に安住する。
「喜ぶ」とは自分に対しての言い訳に過ぎない。
愛人を本当に好きだったら、夫もまた家庭を壊す程の覚悟がなければならないと思う。何とも潔くないところが解せない。
最後の「一時的にも」というこの言葉は、いつかまた女性との関わりを持とうという魂胆が見えるような気がして後味が悪かった。

一度大波乱を起こすべきで、それでも妻が許すくらいであったら、愛情が上回っているのだろうと思う。

人は皆、何かを抑えて生きているのだから。

志賀先生の他の作品には感じない、何ともすっきりとしない気持ちが残ってしまった。


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