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「マリー•アントワネット」 シュテファン•ツワイク作 (上) (下) 感想文

 現在参加させていただいている読書会で、「レ・ミゼラブル」ユゴー著が課題図書となり、1巻を読み終えました

1796年、ジャン・ヴァルジャンがたった1つのパンを盗んだために19年も投獄され、1815年に、この刑期を終え、パリからトゥーロンへ送られました。

1789年の「バスティーユ襲撃」、その時ジャン・ヴァルジャンは24歳、途中何度も脱獄を企て更に刑期が延びて行きます。

レ・ミゼラブルは、フランス革命を背景に語られています。

1793年ルイ16世とマリーアントワネットが処刑され、ジャコバン派の恐怖政治へと入って行きます。

レ・ミゼラブルの1巻の作中に革命議会議員Gという老人が出てきます。国王の死刑に賛成投票しなかったために、革命を推進していたにも関わらず命を存え、慈悲深いミリエル司教と、死を目の前にしたGが思想を論争をする場面が印象に残りました。

その台詞の中に、「わしは大公妃で、王妃だったマリー・アントワネットに同情する。だが新教徒の哀れな女にも同情する」と、この言葉の中に対立するミリエル司教と同じようなGの慈悲深さと謙虚さを感じました。

マリー・アントワネットとユグノーの女性も対立関係、それをこの司教とGが語り合う、言葉では表せない感情がよぎります。

宿命に逆らえず自分の人生を選べなかった人々の中に、それらは真っ向から対立する思想や生き方の人間であっても、かすかではあるが何か共通する価値観がある、それは良心であったり慈悲深さだったり、また謙虚さであったり、それらが歴史に飲み込まれ、それぞれすれ違って行く切なさはかなさをとても感じました。

以前読んだシュテファン・ツワイク著の「マリー・アントワネット」の中にそんな場面があったことを思い出しました。

以下はその時の感想文です。

「マリーアントワネット」(上)感想文
 
 岩波文庫、冒頭のはしがきの最後に、マリーアントワネットの口から洩らされた言葉があった。

「不幸のうちに初めて人は、自分が何者であるか本当に知るものです。」と、苦しみ抜いて自分を見出し得なかった彼女の最後に到達した全てがこの言葉の一点に集約されていると感じた。
 
 年端も行かぬ子が、大人だけの欲望と虚飾と陰謀の世界に巻き込まれていく。さらにそれらの陰謀の手先にされる。

 マリアテレジアがたとえフランスと戦いたくないという深い思いがあったとしても、大人の世界の暗黒を否が応でも見てしまう。デュバリー夫人との戦いが、その歳には相応しくなく黒ずんでいた。

 時間のない中でのお嫁入り、それは外観だけを取り繕う極めて表面ばかりのブルボン家、豪華ではあるが、若き日のゲーテがゴブラン織のタペストリーに描かれた不吉な話が結婚に相応しくないと発見する所が面白い。調度品の豪華さと人間の欲に挟まれたマリー・アントワネットが痛々しい。

 直感的に心配するマリア・テレジアの的確な指摘に驚かされる。政治家であり母である。行く先々の娘の振る舞いの弱点を知り抜いている。政治には介入させないと強い気持ちが伺われるが、彼女の心配の通りに陥って行く、その最後までも。
 
 250年も経った現在の私達が、ルイ16世の男性不能の問題を知る恐ろしさを感じる。一市民だったら全く知られない事を。
2000日の寝室の苦しみ、精神的なものを埋めるためにパリにのめり込みのらくら遊びまわる。読み進めるうちにますます酷くなり、子を授かってもそれは止まない。この精神的苦痛は病のように彼女につきまとう。

 常に子供時代の時のような友を見つけ、真に話せる相手を求めている気がする。それはむしろ男性より女性、そこに幼児期に過ごせなかった何がを埋めている、そこが最も不幸であると感じた。
 
 苦しみに向き合う時、ルイ16世もアントワネットも神を全く恐れていないし感じていない。もし見えない大きな力を信じていたらもう少し違う生き方があったのだと思う。信仰の眼すら持たずに生きた二人。救いがないと感じた。
 ますます遊び戯が酷くなる、

 (引用はじめ)

「墜落一歩手前で踏みとどまることは、マリーアントワネットにはこれまで幸いにうまくいった。しかし内面的焦慮がたかまるにつれて、蛾はいよいよひらひらと、誘蛾燈のまわりを飛びまわる。ひとたび拙劣な飛び方をすれば、たわむれる女は破滅の火に墜落して、ついにこれを救うことはできないであろう。」p.200
(引用おわり)

 幼い時から自由を奪われ、大好きな人と結婚も出来きず、精神的な苦痛とイライラ、どこまでも落ちて行くことは自分にしか救えないと思う。とても胸が詰まる一節であった。
 
 最後に革命下にフェルセンと言うスウェーデン人が、彼女の勇気ある友として現れる。
 下巻の行方はどうなるのか。

 どの言葉も、全て赤ペンで引いてしまうほど、的確で素晴らしい表現で埋め尽くされていた作品だった。語彙がとてもむずがしかった。

「マリー•アントワネット」(下)感想文
 
 彼女が持ち得た本質的な力が革命によってあらわれる。
私達が知り得ないマリー•アントワネット。
  
(引用はじめ)

「いままでは甘やかされた少女の児戯(じぎ)に類する驕慢さにすぎなかった彼女の誇りは、偉大な時代に全世界の前に偉大に果敢に立ちあらわれるいう使命に、いま決然として立ち向う。」

「マリア・テレサの娘であるということがこの弱い、頼りない女を突然魔術的に、おのれ自身を超えてたかめる。」岩波文庫 下巻p.60.61

(引用終わり)

 
 苦しみはその人の持つ本質や限界を曝け出す。彼女の本当の強さ、直感力と決断の速さは素晴らしいし、はっきりした方向を見据えている。

「いざと言う時になると決して間違わない彼女の勘」下巻 p.128

 ヴァレンヌの逃走、過酷な状況、建物、暗い道の冷たさがひしひしと感じられる文章、どんな環境に置かれていても諦めていない、人としての魅力に溢れる彼女の魅力を感じる。

 やがてまたパリに戻される。
その馬車の中で、王家とジャコバン党員と市民階級出の革命党員とが一緒に乗り合わせる、あけすけな普通の王家の家族の状況に驚く党員、また王家から見れば「大罪人ども」と思われる彼らを、王妃は「全く感じのいい、礼儀正しい人たちじゃないか!」と思う。

 この小さな出会い、個人的な関わりが微笑ましい。もしかしたら同じ思い、良心のある人かもしれないと感じていても、この大きな歴史の波に飲まれて行く、対立していなければ分かり合えたであろう人達ともすれ違ってしまい、もう二度と会えない。そんな運命の出会いが歴史の上でどれほどあったのだろうか。

 時代の変革は、どれ程個々に痛みを与えるのか、犠牲の上に少しでも良い世界が実現して行くのだろうか。通らねばならない道だとしても、、なんともやりきれない。

 昨日まで「王妃万歳、王妃万歳」と叫んでいた人々が、今日全く違う世界で王家を倒そうとする、何が正義なのか、昨日の正義が今日は入れ替わる。その速さは人間の愚かさか賢さか。

革命の正当性をしっかり理解し動いていた者はどれ程いたのか。沢山の血が流れ、王家は断頭台へ。誰かの命が奪われないと進歩しない歴史。

14歳で、自分の選べない環境に置かれ、ただそれに従いその座を守る。自分で選んだのは、フィルセンだけ。

 大事なことは最後にわかる、と誰かが言っていたが、断頭台に登る前に、マリーアントワネットが何を思ったのか。自分自身でありつづけられたのか。本当に愛する人に出会えた事を認識できたのか。 ルイ16世にも最後には愛を見出したと私は感じている。

この作品を読んで、マリー・アントワネットは神に向かえる資格を得た気がした。

 ツヴァイクの文章は、辛辣ではあるが私には優しく響いた。
ツヴァイクはマリー•アントワネットを好きだったと思う。

作品に出会えたことをとても嬉しく思う。



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