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米津玄師 2023 TOUR / 空想 @SSA に触れて 感想・空想



1  前置き

米津玄師の2023年最新ツアー「空想」、後半の要となるさいたまスーパーアリーナ(SSA)での公演に馳せ参じた。およそ2年半ぶりとなる前回のツアー「変身」最終日の、ツアー終了後に公開された「KICK BACK」を見て「うおっ」となって以来、いよいよ実地に聴く機会を得た。「LOSER」あたりからの一リスナーで、ライブで聴くのは初、全編を通してボーカルを引き立たせる音のバランスが心地よく、こんなに歌が上手かったんだ、というのが率直な感想です。
主要メディアには詳しいライブ評が出ているか出るはずなので特別に加えることはないのだけれど、個人的に感性のツボを押されるようなポイントが重なったため、整理のため手短にまとめておくことにします。「KICK BACK」論にでもなれば、と。
念のためセンシティブ注意を喚起しておきます。また、この文章はSOSを発しているものではありません。抽象表現と暗喩を用いますが、そこから連想される人物や組織を揶揄する意図はありません。

2  カムパネルラ症候群、だな、これは。

カムパネルラ症候群。そういうシンドロームがあるわけではない。いや、もしかするとあるのかもしれない。が、ここで言うのは、1年も経たぬうちに同じコンサート会場でこころを動かされる体験が続いたために胸がざわつく状態を、仮にそう名づけた。実際にある概念だとしても定義を参照したものではなく、まるでカムパネルラとジョバンニの物語に憑かれているようだなという個人的な胸のうちを指す。

青い光のカーテンがステージを覆い、オルゴールの子守唄のようなメロディーが静かに流れるオープニング。
ツボの一つ目は、いきなり、一曲目が哀愁を帯びたギターリフの「カムパネルラ」で始まったところだ。
表題から、誰もが一度は読んだり関連作品に触れたことがあるだろう宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が想起される。つまり、歌によって語りかけられる「君」は、のほほんと生きている自分に大切なことを示してくれた後、遠くへ行ってしまった。その訣別と再生への出発が暗示される名前だ。
10ヵ月前、同じSSAでAdoのワンマンライブ「カムパネルラ」が一夕限りで敢行され、長めの感想を綴ったことがある。大舞台に立ちたいと夢みた少女はジョバンニ、目を見張るパフォーマンスを見せた歌い手はカムパネルラで、一人の人間の成長とスター誕生の瞬間を目の当たりにした、といった内容だ。
加えて、米津が曲を提供したりコラボレーション曲もある菅田将暉が、宮沢賢治の生涯のおよそ20年間を演じる映画『銀河鉄道の父』もツアー「空想」と歩を並べて全国公開中というタイミングである。アートのシナジー効果。

要するに、初っ端からガツンとやられた…。

時の風に、薄っぺらいからだを翻して生き続ける自分に比して、君が残したものは「傷」ですら輝く。
歌詞を吟味すると、樹木や鳥や鉱物といった賢治の好んだ語彙が頻出するものの、君とは賢治へのオマージュにとどまらない。「空想」でも後に披露される「ひまわり」という曲は、前回ツアー「変身」千秋楽では、今は亡き友人に向けて歌いたいとの前置きが語られたらしい。アーティストにしか語りかけられないかけがえのない相手がおり、もちろん歌としての普遍性が、聴く者一人一人にとって、大切な誰かへの呼びかけとなる。

アルバム『STRAY SHEEP』がリリースされた時期の社会の混乱と閉塞感がまざまざとよみがえる。
当時の音楽誌のインタビューで、アルバムがほぼ出来上がってからまだ何か足りないと切羽詰まったようにこの曲を作成したところ、すべてを象徴するかにピタリとはまったという意味のことが語られていた。
15曲を収録する同アルバムには、語彙だけ見ても「傷」を歌う曲が3分の1もある。別れや孤独など内容もふくめば、多くがなんらかの痛みを背負っている。同時に、「愛」と「花」も過半数の曲で歌われているのでほっとする。『風の谷のナウシカ』にインスパイアされた曲「飛燕」より始まる前作『BOOTLEG』では、「夢」が過半数の曲で歌われていた。

一人一人が迷える羊であり、みなが傷ついている。

もう会えないひとを「憶えていたい」と願う。

わたしたちは忘れやすいから。

100年に一度のパンデミックでも、忘れられるのは案外早いという説がある。何月何日に始まり、いつ完全に終息したと日付を確定できないからだ。セレモニーは行われない。すべてをぐしゃぐしゃにして波が引くようにフェイドアウトしていく、その引き際にある現在、「空想」の会場ではマスク着用をルールとしている。
2011年の震災後に、賢治の朗読がメディアで繰り返し流されたことを覚えているひとはどのくらいいるだろうか。わるいものではない。嫌でもなかった。だけど、とつけ加えたくなる違和感のしこりが残った。何度も、何度も、聞かされた。

…「カムパネルラ」を歌い終えるころ、バックスクリーンいっぱいの星空に、線描の線路が敷かれる。
列車があらわれ、線路と共に吸いこまれるように銀河の奥へ旅立つアニメーションも秀逸だ。楽曲群には「Nighthawks」も「M八七」も控えている。

ライブ冒頭から、二度と会えないかもしれない者への切実な呼びかけが、深い共感を呼んだ。
こんな曲で始まるエンターテインメントがあるだろうか。
わたしたちは忘れないだろう。

3 「KICK BACK」まで

オンラインゲーム『FORTNITE』のイベントでも披露されていた「迷える羊」が二曲目に来る。リアルタイムでは視聴していないけれど、あの状況だからこそ実現した特別なライブだった。今回バンドセットで聴いて、うねりのある、時代と切り結ぶような開幕の楽曲だと感じる。
青緑のゆったりしたシャツとパンツスタイルで、大げさな振りつけはなく、スタンドマイクを両手で庇うようにして歌唱に集中する姿は、この後も多くの曲で見られた(曲によりギターを持ったり、バックダンサーのチームが躍動する)。
「感電」や「Décolleté」のような多彩な曲、ファースト・アルバムの曲に続いて、早い段階で「優しい人」を聴けたことに感銘を受けた。これが、二つ目のツボ。

ライブでやるんだ、この曲…。

哀切、繊細、かつ芯のあるメロディーライン。初期の楽曲の寓話性を想起させる、ストーリーのある歌詞。冷酷で寓意に満ちているのに、直截的に神経を刺してくるふくみがある。
なにかと他人につけこまれる不器用な「あの子」を、「あなた」は無償の愛をもっていつくしむ。
どうしてわたしはあの子じゃないの。

粘土(クレイ)のキャラクターたちと人間の手だけをストップモーションで撮影したMVを空想する。

雨が降れば穿たれ、風が吹けばよれる。
指の長いきれいな手が、人間とも、動物ともつかぬクリーチャーたちのかたちを整える。
かごめ、かごめ、生命力を得ると遊びがはじまる。
すぐにいさかいとなる。
つまはじきにされたあの子を、きれいな手は包みこむ。
夕陽を反射するガラス窓のこちら側で、わたしも包まれたいと、拳を握りしめる。
晴れた日、ごつごつした拳骨があらわれ、か細い指を奪おうとする。
引っ張り合い、あの子たちも、もみくちゃにされてしまう。
たたきつけられる。
ひしゃげる。
ちぎられる。
手は引きずられていく。
枯葉にうずもれ、雪がつもる。
蝶が舞うころ、皺の増えた手がもどってきて、クリーチャーたちのかたちを整える。
かごめ、かごめ、生命を吹きかえすと遊びがはじまる。
つまずき、転げ、かたちの変わったことをからかい合う。
転んだものを起こし、かたちを整える手。
押し合って、団子になって、坂を転げ落ちる。
手は、必死で受け止めようとふんばる。
何度も。
何度でも。
いつもガラス越しに見つめているわたしは、手を差し出そうとして、躊躇する。
流れているのは、本物の血であり、本物の涙だ。

聖母のような優しさを独り占めにしたい。
傍観している疚しさは隠したい。
癒やしてもらうには、壁の向こうへ出て、傷つかねばならない。
ガラスとて、いつかは割れる。
ならば、自ら安全地帯を出る歩み方もあるのではないか…。
「KICK BACK」に顕在化する暴力や渇きを全く別のベクトルで圧縮し結晶化していたのが「優しい人」という稀有な楽曲であるように感じる。
すでに歌われたように、わたしたちは生きてどんどんきれいでなくなっていく。天井が重い。曇り空も、重い。広場を見回せば、社運を謳い国家的催事を担った巨頭の数々がいびつな羊の角を撫でながら隅に縮こまっている。全身どす黒いコールタールに塗れた連中が枯れた芝生に引きずり出され、順繰りに毛を刈り取られる。それは他者を疎んだ者たちだ。うつくしいものを軽んじた結果だ。その恥辱の列の末端に自分が居ないという保証など何処にあろう。

古い雑誌の米津玄師インタビュー記事を参照すると、ザ・スミスやザ・キュアーのような曲を作ろうと思ったとの発言がある。ポップなメロディーからは想像もつかぬ歌詞内容が搭載されているイメージ。その時点では「かいじゅうのマーチ」を指していた。怪獣の立場・主観で歌詞を見直すと、なるほど…。本ツアーで同曲はセットリストの後半に演奏される。
「優しい人」はそういう志向の一つの完成形ではないか。
単にエンタメを届けるだけでなく、メッセージを送るという責任感と自覚をみた。ガラス窓や壁の向こうへ進む自らの強い意志。これは、後半のMCで観客に直に語られるメッセージにつながる。

中盤のMCでは、あるゲームに熱中していることが明かされる。作曲の息抜きのはずが、どんどん時間を取られ、取り返しのつかないことになってしまったと。俺の人生こんなのばっかり、いっつもどおりの通り独りもうこりごりと「LOSER」冒頭へそのままなだれこむのは格好良く、そこからロックなナンバーが立て続けに。鉄骨の足場を3階建てに組んだむき出しのセットの各階でダンサーが踊る紅蓮の舞台は、どこかミュージカル映画を髣髴とさせるな、などと考える暇もなく「KICK BACK」中途にて記憶がとぶ。
(あれ⁇)

4 「LADY」へ

少し熱気を冷ますので長目に喋りますと断って、ツアータイトルの説明が始まった。
本や映像に囲まれ、とても孤独で、外の世界に関心を持たない子どもだった。自分がつくって来た音楽や、それを育んだ作品の根っこには、一本の脊椎・幹として空想というものがあると考え、ツアー名にした。
今日、自分が好きでつくる音楽をこんなに大勢のひとが聴きに来てくれるのはありがたく、ツアーはお礼の意味でも続けている。

ありのまま、というのは好きではなく、ありのままの自分として振る舞えば、周囲との軋轢が生まれる。
決して楽に生きて来た訳ではない。
この会場に、自分のようなやつらがどのぐらいいるだろうかと真剣に考える。自分の背中を追えとまでは言えないが、一言、伝えたい。
大丈夫、なんとかなる、と。
こんな自分でも、こうして歌を歌ってやっていけている。校長先生のように登壇してこんなに長々と話すとは想像したこともなかった。人生、そんなにわるいもんじゃない。

最上層まで満杯の2万数千人を見渡して、米津玄師は2日目のMCでおおむねそのように語った。かつて邪魔で前が見えないと歌われた前髪をセンターで分け、晴れやかな表情だった。

空想つながりにより、ナンバリングのあるタイトルとして世界に類例のない『ファイナルファンタジーXVI』の主題歌が、発売直前のタイミングで紹介される。終盤に向け、フロアの中央まで迫り出した花道がいよいよ活用される時だ。
波と月を背に、運命的な出会いが歌われる。
花道のソロダンサーが旋風に巻かれるように、熱風にはたかれるようにスモークの雲間に浮き沈みする。きっとゲームのキャラクターを宿しているのだろう。
2曲、3曲とゆるやかに盛り上がり、ダンサー総出で踊り練り歩く「馬と鹿」のフィナーレ。
今後、ゲームと連動してJ-POPはどんな世界展開をみせるのだろう。

アンコールには音程を取るのがむずかしそうな新曲が披露された。「POP SONG」と2曲をはさみ、さいごにはタイアップの缶コーヒーCMが放映中の「LADY」で閉じられる。本ツアーから参加と紹介されていたキーボード奏者がアダルトなテンポを刻み、散文的な歌詞が耳に残る。

やがて、花道に林立する照明の光の柱が、先端から消えていき、ステージの奥へ歩を進める米津をうすら闇がつつむ。

背景の星空にふたたび線路があらわれ、列車が来て、アーティストを乗せて銀河の向こうへするすると走り去る。

銀河鉄道はツアー全体のコンセプトであったわけだ。

オーディエンスに大切なことを確かに伝えた米津玄師は見事カムパネルラに変身し、次の活動場所へと出立した。

エンディングは、オープニングのオルゴール調の調べに戻り、荒ぶる音楽を奏でた楽器を鎮め、光のカーテンが舞台を大きなゆりかごのように見せる。ツアーのクレジットタイトルが、映画館でのエンドロールさながらに流される。

…ということなのです。
長くなりました。
カムパネルラ・シンドローム、だな、これは。

5  ボーカロイドが「優しい人」を歌う日は来るだろうか?


ミクが言う。なにかをわすれている気がする。
リンが応える。わたしたちは、わすれやすい。
ミクが言う。だれかをわすれている気がする。
ルカが応える。かみさまは、わすれない。
ミクが問う。あとどのくらい?
レンが言う。まあだだよ。
ミクが問う。もういいかい?
林檎の木。……。
ミクたちが問う。もういいかい?

ボーカロイドが「優しい人」を歌う日は来るだろうか?