見出し画像

映画『母性』を観た話

 「母」という言葉は、時に偉大なるものを形容する言葉として使われることがある。母なる大地だの、母なる海だの、「母」をつけると、すべてを包括するような計り知れない存在となる。しかし「母」という存在そのものがそうであるかどうかは、人によってきっと異なるはずだ。私は母という存在が、いまだによくわかっていない。感謝していることもあれば、彼女の子の育て方を呪縛だったと捉えていることもある。たった一言で、何の迷いもなく説明できてしまうことではないと思いながら、私は俯瞰で映画『母性』を観ていた。

 育児に正解はないとよく訊く。しかし間違いはあるのかもしれない。真面目で、正義心があって、他者への礼節を怠らない人に育てることだ。簡単に言えば「よい子に育てようとする」こと。子供時代というのはあまりに無垢で、何でも純粋に吸収してしまうものだ。「よい子」にしていれば、親は子を褒め、子は親の喜ぶ顔を見る。それこそが人間たるものの真理であり、追求すべきものだと誤解してしまう。しかしながら人は育つ過程で「欲」を自覚する生き物だ。何かを欲しがったり、他人を羨むようになる。その欲が親によって否定されれば、子はそれを禁忌と自覚し、親を怒らせたり悲しませてはいけないと思うだろう。そしていつしかそれは子にとって親に与えられた呪縛となり、気づいた頃には大人になってしまう。親に認められ評価されたり、他者を喜ばせたりすることが子にとっての幸福となり、彼らの人生における「幸福」とは、その半分が誰かに委ねられたものとなってしまうのだ。

 まさにルミ子と清佳の関係性そのものなのである。初めこそ"清らか"な暮らしに囲まれていたが、ある契機を境にその関係性は様相を変えていく。理想と現実のコントラストが悲しくも鮮やかで、見ているのが辛かった。「よい子」で居続けることは、必ずしも正しいこととは限らないのだ。「よい子」のまま大人になったルミ子に、「よい子」であれと育てられてきた清佳。二人はある日から田所の実家で、その義母と暮らすことになるが、そこには二人とは対照的な親子が存在している。義母こそ傲慢で過保護だが、その娘は母親への反抗心を潜めているのだ。彼女の実家の金を無心するような男に会いに行くと言って家を飛び出す律子を、裏返った優しさから止めずに見逃してしまう清佳。その自由奔放さが、ひょっとすると清佳が本当に得るべき感覚だったのかもしれない。

 上司との居酒屋のシーンで、清佳はこんなことを言っていた。「真面目だね、って褒め言葉ですか?私には他の人にあるような余裕や遊びが無いのに」人生というものにおいて、真面目な人ほど馬鹿を見るとよく言うし、結局適度に力を抜いて生きている人の方が楽しそうだったりする。決して、子は親の芸術品ではないのだ。他者の評価によってその価値が決まってしまう芸術品のように育てられてしまうとは、なんて皮肉なのだろう。奇しくもルミ子と田所の出逢いは、絵画教室だったのである。

 他人の評価を軸に、他人に自分の幸福の半分を委ねてしまう人は、その人を失ったら路頭に迷ってしまうだろう。だからこそ本来は、一人でいても幸福を感じられる状態であるべきなのだ。それこそが究極の自立なのであり、最も理想的な人間の姿のうちのひとつなのである。清佳はルミ子の元を離れ、同窓生との子を身籠る。彼女は自らの生い立ちを顧みて、どんな娘に育てるのだろうか。私はそこにこの映画の救いを見出したい。

 というようなことを、私は映画を観る前から偶然にも俄かに気付き始めていたのだ。私の母親は、ルミ子ほど毒親然としてはいないが、それなりに躾はされてきたと思う。やりたいと言ったことを否定された記憶も強く残っているし、幼い頃に通信簿に書かれた「真面目」という3文字が私にとっての呪縛となり、それがそこから20年以上続くとは思いもしなかった。大人になってからその呪縛を解くのは容易くなく、もはや破壊するしかないのかもしれない。ルミ子が教会で懺悔をするシーンで、牧師が言う。「ありのままの自分をさらけ出し、認めるのです。」ありのままの自分とは、きっと真面目なだけじゃないはずだ。そう信じることが、呪縛を破壊する第一歩なのかもしれない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?