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おとこが卵を産むようになっちまった世界の最低最悪なボーイズラブ

※以前書いたこれを印刷用に追記しました。

(これを含めた何篇かを本にして、22年5月29日の文学フリマで売るので縁があったらお立ち寄りください。スー3 うそチンチラ軒です。現時点でまだ原稿が終わっていないのが不安)


俺は市場の早朝バイトで生計をたてつつ、駅前や公園でギターをかき鳴らし歌う男だ。そういう暮らしをもう十三年ほど続けている。進歩も進化もない男だ。
だが人類は着々と進化し続ける。
地球レベルで加速する少子化の果てに人類は尖った進化をとげた。女は腹に胎児をはらみ、男は腸の途中から分岐した臓器で卵をはらむ。
男の尻穴はいつのまにか総排出腔となっていた。
 
まあそうは言ったが、俺は尻の穴からうんこしか出なかった頃のことはしらん。俺たちは当然のように毎朝、ニワトリのように卵を産む。
いまでこそ朝飯の後にプッと卵をひり、余裕で自転車にまたがる俺だが、初めて卵を産んだときはケツの痛みで最悪の気分だった。忘れもしない十五歳のクリスマス、彼女もおらず、サンタももう来ないクリスマスの朝だ。俺はホカホカの卵を産み、布団の中でケツの痛みに泣きぬれた。
これから毎日この痛みを味わうのかと絶望したが、毎日のこととなればすぐに慣れた。産んだ卵をごみ箱にぶち込むのも手慣れたものだ。
だが、この人類の比較的新しい機能には恐ろしい弊害があった。
カルシウム不足だ。牛乳、煮干し、牛乳、煮干し、牛乳、煮干し……飲んでも食べても毎日、卵の殻になってケツから出て行く。効率よくサプリメントで補充する手もあるが、毎日飲むとなると高い。俺たちのような貧乏人には特にきびしい。
三十歳まであと一週間という初冬、サプリ代にすら困っていることについてはあまり深く聞かないでほしい。
 

「いやー、まいった。まさか折れるとは……」

全然参ってない顔でキタハラハチロウはヘラヘラと笑っている。そして、ほらほらと包帯が巻かれた小指の側面をみせつけてくる。
ハチと俺は同い年だが、洗ってないイモのような俺とは違いハチはどことなく南の方の血を感じさせる向日葵のようなやつだ。三十前にして四十代に間違われる俺と、いつまでも二十歳前の青年のようなハチ。共通項は性別と高校が一緒だったこととカネがないことぐらいだ。

「キレーな顔は守れてよかったな」
「ほんとそれ!!浮気ぐらいでフツー、ビール瓶投げるか?」

ハチはいわゆるヒモをして暮らしている。彼女とどんな喧嘩をしたのかは知らないが、どうせハチが悪い。投げつけられたビール瓶が目に浮かぶ。ハチはとっさに自分の美しい顔面をかばい、ビール瓶の底が命中した小指の根元の骨がほんの少し欠けたらしい。

「おまえ、倫子さんと付き合ってから浮気何回目だ?三回か?」
「いや五回…?」

顔が良いだけのぐうの音も出ないクズ。それがハチだ。かわいい女が目に入れば、ほいほい口説いてベッドに上がる犬のようなやつ。そのうえカネにもだらしない。
ハチはあちこちの女に手を出してバレてぶん殴られるなりして寝るところをなくすと、連絡も寄越さず俺の城に転がり込む。この家賃3万円トイレ共用風呂なし城に。
決まってハチは勝手に俺の大事な相棒が入ったギターケースをどけ、積み上げた古本たちの上に高そうな服をドサドサとのせる。もこもことした毛皮のコートやらツヤツヤした生地のシャツ。一見女物に見えなくもないが、全部こいつの服だ。

「倫子さん、なんでお前と付き合ってんだ。まったくわからん。」
「え、俺が最高の男だからじゃない?」

ハチに寝床を与え三食の飯を食わせている女、倫子。ハチが尻尾を振るだけあって、その姿はギリシャ神話の女神のように美しい。しかし四六時中酒を飲み、常に目が座っているのであまり関わりたくない種類の人間だ。ハチをたやすく養えるほど羽振りがいいが、なんの仕事でカネを得ているのかもよくわからない。不思議に思ってハチに尋ねたことがあったが、興味がないの一言だ。
ハチは自分以外どうでもいい。そんな単純明快なハチとは対照的にまったく不可解な女。それが倫子だ。

「やっぱ肉追加しよ。あ~欠けたのが左指でよかった。右だと飯を食うのもむずかしい」

小指の治療費で文無しになったハチは俺の部屋に上がり込んで荷物をバラすと、勝手にカセットコンロと鍋を引っ張り出して飯を作り始めやがった。明日の晩、炒め物にするはずだった半分で30円のしなびた白菜と常備の1キロ300円の安ソーセージで一人鍋パだ。
何を言っても無駄なので俺はダシ用の煮干しをむさぼり食いながら、勝手にソーセージを追加しているハチにらむ。
白菜を突っつきまわす箸をつまむハチの指はスッと長く、桜貝のような色をしたほっそりと形の良い爪が付いている。煮干しをつまむ俺の指は角ばって妙にムチムチしており、同じ人類の指の形とは思えない。
ハチのまぶたにはあきれるほど長いまつげが並んでいて、煮える鍋を眺める伏し目でさえ憂を秘めていそうな影を落とす。本当はなにも考えてないのに。極めつけにいつも口角が上がっていて機嫌がよさそうな口元と黒目がちな目、ハチミツのような陽気な色したふわふわの髪の毛、見た目だけならまるで無害なワンちゃんだ。

「はぁ~カネがねえ。コレの治療費どうすっかな~リンちゃんに請求しようかな?」
「やめとけ。またビール瓶が飛んでくるぞ」
 
天使のような神に愛されし顔で口をとがらせ、骨が欠けた方の手のひらを揺らす。手首まで巻かれた包帯の真下で金色の細い腕輪がふらふらゆれる。

「…服とか売れば。あとその高そうな腕輪とか」
「いやだね。俺が輝くための投資なのこれ」

ハチは馬鹿なうえにナルシストで本当に救いがない。

「俺、いっつもリンちゃんに飯を作ってもらってたんだけどさー。なんかカルシウム?が足りないみたいで。こないだ卵詰まりで死にかけた」

煮干しが喉につかえ欠けて俺は激しくむせる。何がおかしいのかハチはケラケラと笑い出した。

「リンちゃん料理下手くそでさ~。いっつもなんかめっちゃ塩っ辛い炒めた肉とごはんとかなの。それかカップ麺」

ハチの肌は真っ白…いやこれは血色が悪いのか。カルシウム不足で殻がうまく作れなくて卵がケツにつまるなんて、あまり現代の日本では聞かない。

「くえ」
「うん」

俺は思わず煮干しを差し出す。ハチはぱくりと煮干しにかみつくと「にがいなあ」と文句を言いつつ乾いた小魚を咀嚼する。

「……月一の床屋やめてサプリでも買えよ。カネの無いなら自分で切ればいい、俺みたいに。バリカンなら貸してやる」
「美容院?」
「そこはどうでもいい」
「俺、丸刈りなんか似合わないよ」

もぐもぐとハチは追加投入されたソーセージも遠慮なく食う。俺は白菜が沈んだハチの小鉢に数本の煮干しを投げ入れた。

「お前、ちゃんとカルシウムを取らないと本当にヤバいぞ。ケツに卵が詰まって死ぬのは嫌だろう」

ははうけるとハチは眉毛を下げる。

「確かにそれはカッコ悪いな…。カルシウム……あ、卵の殻とか食えばいいんじゃない?煮干しより効率よさそう!」
「は?」

いいことを思いついたとばかりにハチは立ち上がる。俺の足には絶対に入らない細身すぎるズボンをはいた長い脚で、台所の片隅にあるワンドアの粗大ごみに近い冷蔵庫に歩み寄り卵を一個あさり出してきた。いつ買ったかもわからないニワトリの卵だ。

「おいやめろ!絶対に腐ってるぞ!それは!」
「なんでゴミを冷蔵庫にいれてるの?」
「うるさい!忘れてたんだ」

ハチの馬鹿がテーブルの角で古い卵を割ろうとしたので俺は慌てて卵を奪い、ごみ箱にぶち込んだ。

「あ~あ」
「あ~あじゃない」

俺は肩で息をしている。ハチは花のように笑っている。

「もうこの際、ヨシ君が産んだ卵でもいいや」
「はぁ?!」
「ヨシ君は毎日産んでるんでしょ。俺はたまにしか出てこないけど」

最悪すぎるのでいっそグーで殴ってやろうかと思った。だが結局、俺はそういうことができない。
ハチは濁りが少しもない目が笑っている。ハチは何を考えているんだろうか。もしかして冗談をいっているのだろうか。俺はお前のことが気持ち悪いのか、怖いのか。お前に怒っているのか、困惑しているのか。何もわからなくなる。

「お前、マジで言ってるのか。俺の卵……」
「あ、歯ぁ磨いて寝よ」

煮干しが浮いた小鉢をちゃぶ台の上に置いて、ハチは部屋を出ていった。この部屋に洗面所というものがないからだ。眠くなったから寝る。寝るために共用の洗面所で歯を磨く。ハチはそういうやつだ。
 

ちゃぶ台の上には出しっぱなしのカセットコンロと鍋。その隣にハチの持ってきた瓶…化粧水?と何かわからんが顔に塗るやつが並んでいる。カーテンなんかないガラス窓を通して降り注ぐ外の防犯灯の光が見慣れない瓶の輪郭を照らしている。狭い部屋は鍋の残り香とハチが持ってきた化粧品の花畑のような甘い香りとが混ざり合っている。
ハチは当然のように俺の薄っぺらい布団にくるまって寝ている。俺の寝る場所がない。ちゃぶ台の上に乗ったものを倒さないように慎重に壁に寄せ、俺はけば立った畳の上に寝転ぶと掛布を引っ張って何とか布団の下に入った。
明日のバイトも早い。これから寝るのでは三時間も眠れない。ハチが転がりこんでこなければ、もっと早くに布団に入っていたはずだ。まだ日も登らぬ市場で魚の入ったトロ箱を右や左に運ぶ作業。体はキツイがそこそこ実入りはいい。そして午後は丸々自由になるのが何よりもいい。
 
日々がさついていく畳の感触。前の住人が置いて行った古いエアコンから溢れるぬるい風。遠ざかるサイレン。静かなハチの寝息。腹の中で勝手に作られる卵。まったく世界は物思う俺とは無関係に進んでいく。
 
深夜一時少し前。目覚まし時計のアラームは鳴る間に切った。寝転んだものの、結局ぐじゃぐじゃと考え事ばかりして眠れなかった。隣でハチはもちろん寝ている。俺は電気もつけずに支度をする。
凍るように冷たい水道水で顔を洗い、泥水のようなコーヒーをすすり安いあんパンをかじる。毛玉が付いたセーターの上から厚手のジャンパー着こみ、財布と鍵とほとんど何の着信も来ない携帯端末をポケットに詰め込む。そしてギターケースを背負えば完了だ。
十二月だというのに東京は雪も降らない。ただ息が白くなるだけだ。背中のギターケース込みでの重心管理はばっちりで、俺の自転車は滑らかに市場への道を転がる。
 

魚のにおいが微かに香るロッカーにギターケースを押し込んだら、ひたすら労働だ。右へ左へ魚が運ばれ、俺が運ぶ。このグルーヴ間の中で歌詞やメロディーが泡のように浮かぶ。俺の頭の中に満ちる泡。この泡が消えないうちに歌いたい。だから俺は仕事を終えるとロッカーから相棒を取り出し、市場の食堂で魚のあら汁と親子丼をかっこみ、若干の磯臭さをまとったまま自転車をアパートとは別方向に走らせる。
 
都会にありながら木々が深いこの公園は踊るもの、寝ているもの、いちゃつくもの、遊ぶものとそれぞれが自由にやっている。ありがたくも居心地がいい無関心だ。
遊歩道から外れたなるべく公園の奥のベンチが一番良い。アコースティックギターを抱えて湿り気のあるベンチに腰を落ち着け、携帯端末を取り出す。ぼんやり光る待機画面は購入時のまま変えていない。そして何の着信もメッセージも届いないのもいつも通りだ。俺はほぼこれをギターのチューナーとして使っている。アプリを立ち上げ、弦をはじく。
今日の労働で生まれた泡のような歌詞とメロディーを壊さないように、薄く目をとじ弦を弾く。緩やかにつながった音と音、言葉と言葉は簡単にバラバラになってしまうので慎重に。この泡の海を渡るようなスリルと高揚感が俺をこの生活に縛り付ける。

「世彰」
「ひっ!」

酒やけた女の声で繋がりかけた泡がぷつぷつと弾けて消えた。反射的に目を開けると目の前に女の顔があった。

「倫子さん」
「釟郎、またあんたのところにいるんでしょ」

無理な姿勢で腰を曲げていた倫子が片手に飲みかけのワンカップを持ったまま伸びをする。倫子は波打つ長い栗色の髪を風になびかせ、いつもの口角を下げた顔で俺を見下ろしている。赤とえんじ色のむら染めワンピースの華やかさをぶかぶかな黒い皮素材の上着の威圧感が完全に塗りつぶしている。

「はい、ハチなら昨日転がり込んできました。多分まだ俺んちで寝てると思います」
「ふーん。そう」

倫子は俺より多分一つか二つ下だ。だがなんとなく敬語を使わずにはいられない雰囲気がある。何をしてくるか、考えていることが全くわからないからだ。ハチを連れている倫子と何度か顔を合わせたことがあるが、酔っていない時がないのもおそろしい。今、こうやって俺と話している間も真っ赤な唇に薄黄金色の日本酒を運んでいる。

「これ?かわいいでしょ。もったいないからずっと開けられなかったんだけど、いい機会だから開けちゃった」
「はあ」

赤い鹿がぴょんぴょんと跳ねまわる柄が付いたかわいいワンカップは確かに倫子イメージではない。そう思ってみれば、いつも上着のポケットに突っ込んでいる酎ハイの缶が見当たらない。

「もう酒止めるの。だからこれが最後の一杯ってわけ」
「え!」
「なんかおかしい?」
「いえおかしくないです。よかったです」
「よかった?酒は悪いことってこと?」
「いえ、そういうことは言ってません」

冬だというのにジワリと首筋に嫌な汗が浮かぶ。倫子はまた段々と距離を詰めてくる。長い髪が風で生き物のようにうごめいている。

「ねえ、なんか明るい曲歌ってよ。恋の歌がいい」

すいません、と意味も分からず謝りかけた俺に倫子はにこりともせずに命じた。リクエストなんか受け付けたくないが、倫子が早くと急かすので俺は脳内のレパートリーを必死に探す。あいにく明るい歌も恋の歌も得意ではない。おれは誰かの事を歌えない。

「早く」

一か八かだ。俺は六弦をかき鳴らす。ジャンジャカジャカジャカなるべくアッパーに。喜びで飛び跳ねているのか、追われて飛び跳ねているのか、草くう生き物の仕草なんて肉を食う方にしてみればどうでもいいだろう。浮かぶ泡がないのなら無理やり絞り出すしかない、恋を歌えというのなら今、歌い上げるしかない。
 
「君はヌートリア 僕は桜並木の土手
 君というヌートリアが住み着いた
 君が僕に巣くい 僕という土手は穴だらけ
 
 君は六月の雨 僕は穴だらけの土手
 君という雨が土にしみこむ
 君が僕にしみこんで 僕という土手は崩壊寸前
 
 君は夏の台風 僕はくずおれた土手
 君という暴風雨が僕の草木を根こそぎ奪う
 君という台風が 僕のすべてを巻き上げる
 
 春に巣くい 梅雨にしみこみ 夏に壊れる
 恵みの秋には川があふれ きっと何もない冬が来る」
 
きわめて短い恋の歌だ。倫子は目を丸くしている。俺は思わずギターのネックを強く握った。

「アハハハハ!ひどい歌詞!全然明るくないし!」

倫子が笑った。ひどいと言いながらも笑い続けている。天を仰ぎ、すぐに腹をかかえる。大うけだ。

「恋なんて酷いもんですよ」
「まあそうかもね」

倫子は鹿のカップ酒の最後の一口をすすると、カップをひっくり返して地面に向かって振って残滓を飛ばした。そして俺の手から手早くピックを奪うと空のカップを無理やり握らせる。

「なんですこれ?」
「おひねりあげる」

高そうな財布から倫子はむしるように札を取り出し俺の手の中にあるワンカップにねじ込んだ。十枚程度ありそうな札はすべて一万円札だ。喉の奥からしゃっくりのような変な声が出た。

「もう要らないの、それ」
「ええ?ちょっとどういうことです?」
「あんたには関係ない!」
「あ!すいません」

もう口角を下げた倫子が声を荒げたので俺は思わず誤った。倫子はフン、と息をつくとピックを投げてよこした。振り返りもせずに去っていく倫子の背中を俺はただ見つめるしかなかった。
 

俺の財布には今、十万と三千と十六円入っている。十万は倫子がよこしたカネだ。めったに手にしない大金に心臓の鼓動がおかしくなったので、あれから結局何もせずにギターをケースにしまった。大金を抱えびくびくとおびえ俺は自転車をひいてアパートに向かって歩いている。自転車で飛ばす気にもならない。
あんなひどい歌を披露しただけで、こんな大金をもらうわけにはいかない。だがハチ経由で返そうとすれば、必ずハチのポケットに入るであろう。しかしあの倫子に俺がカネを突っ返せるわけがない。
突然ポケットの中の携帯端末が震えだした。着信だ。仕事でなんかやらかしたのだろうか?慌てて液晶を見ると知らない番号だった。出るかどうか迷ったがあまりにも長く端末が震えるので着信のアイコンを押す。
「あの……北原釟郎さんのご家族ですか?」
知らない女の声だ。落ち着いたやわらかい声。その女の声の向こうはざわついていて何人かの人の気配がする。

「いえ違います。俺はただの」

ただのなんだろう?当たり障りのない言葉を探す。

「俺はただの友達です」
「え、そうでしたか……。では釟郎さんのご家族の連絡先はご存じでしょうか」
「いえ、ちょっとわからないです」

ハチが家族の話なんかしたことがない。あいつも誰かから生まれた子、そんな当然のことを今まで考えたことがなかった。

「あの俺でよければ事情をうかがいますが。ハチが何かしたんですか」
「それが当院に釟郎さんが救急搬送されまして、ご家族の連絡先を尋ねたところ、こちらの番号を……」
「ハチが!あの大丈夫なんですか!いや、大丈夫じゃねえんだな……すいません、病院の名前教えてください」

看護師の女が何を話していたかはあまり覚えていない。ただ、ここら辺で一番大きい病院の名前が耳に入った瞬間、俺は礼もそこそこに通話を切り、自転車にまたがりペダルを踏んでいた。
 

受付でまごついている俺に声をかけてきた若い看護師の声は聞き覚えがあった。山口と名乗ったその看護師は少し疲れた顔でハチのいる病室へと案内をしてくれた。
すれ違う患者や見舞人、看護師が俺を不審げにみる。ギターを背負ったやつが病院に来ることがあまりないからだろう。

「ショックですよね。お友達が刺されたなんて」

いやそうなるかなと思っていた、などとは言えない。俺は俯いてごまかした。きっと刺したのは倫子だろう、証拠なんてないが俺は確信していた。
ハチが刺されるぐらいのことを倫子にしたのだろうか、倫子が刺すぐらいハチに執着していたのだろうか。公園で笑い出した倫子のことを思い出し、背筋が寒くなる。
 
廊下の椅子の上にギターを置き、恐る恐る集中治療室に入る。ハチは昨晩と同じ顔でベッドに横たわっていた。ただ酸素マスクをしていて、よくわからない管やケーブルが布団の中から伸びて難しそうな機械につながっている。

「ご家族の連絡先を尋ねたらスマートフォンにあなたの番号を出して……それから意識がなくなったんです」

転がり込むならせめて電話しろ、と教えた番号だ。結局一度もかけてこなかったくせに。
 
ハチの人間関係は女と女と女と女と女となぜか俺。それだけ。そんな腐った交友関係のせいで俺も警察の事情聴取を受ける羽目になった。当の倫子が出頭したのですぐに自由の身となったが。
無事に三十歳になって年があけ、俺は毎日卵を産んでは捨て、その数が百個になろうとしても、ハチはずっと眠ったまま。俺の部屋のハチの荷物もそのままだ。
あれから何度かハチの様子を見に行ったが、ハチの女と女がかち合った場に居合わせてつかみ合いのケンカに巻き込まれたので、それ以降は行くのをやめた。
 

桜が咲くころ、冷蔵庫に詰まっていた有象無象の食品の成れの果てに手を合わせ、すべて燃えるゴミに出した。
梅雨に差し掛かる前に、倫子に歌って聞かせた恋の歌をもう一度あの公園で歌い、慣れないながらも携帯端末で録画しネットの海に流した。数件のいいねがついた。
セミが鳴き始めるころ、リサイクルショップで格安のハンガーラック買った。部屋の片隅に置き、本の山の上に重なったままのハチの服を拾い集めてかけた。
 

「ハチ、目が覚めたんですか」

ハロウィンに浮かれて商店街が全体的にオレンジになる頃。牛丼屋で飯を食っている時にかかってきた電話。とりあえず俺はつゆだく大盛りを完食してから病院に向かった。
いまさら急いで向かってもあまり変わりないだろうと考え、俺は病院のそばの薬局に入る。雑然とした店内からサプリメントの棚を探し、ハチにぴったりの見舞いの品を買った。瓶に入ったカルシウム錠だ。ずっしりと重い徳用サイズのこれがあればハチの奴も半年は卵が詰まらないだろう。
倫子の十万円はまだ手を付けていないから、これくらいの出費はいいだろう。
 
見覚えのある看護師の案内でたどり着いた病室は一般病棟の大部屋だった。六つあるベッドはすべてカーテンで閉ざされて、それぞれの空間が切り離されている。右の窓際がハチのベッドだという。

「ハチ」

淡い緑のカーテン越しに呼びかけても返事がないので、そっとカーテンの合わせをずらす。簡素なベッドの上で布団に包まれ、黒の短髪の男が眠っている。一瞬部屋かベッドを間違ったかと思ったが、その顔はどう見てもハチだ。見飽きた顔だが、記憶の中より一回り小さく見えた。

「ハチ……」

声をかけるとハチはうなりながら目を開けた。俺の方を見るとにへらとしまりなく笑う。唇に全く血の気がない。

「リンちゃんに、もう別れる?って言ってみたら、刺された。びっくりしたわ」

かすれた声で、時折むせながらハチはいきさつを語る。

「あほか」

俺はこの一言がすべてだ。

「まあ命が助かってよかったな……。これに懲りたらもう浮気はするなよ」

ベッド脇のスツールに腰かけ、ハチの姿を眺める。まっさらな病衣、痩せたハチの筋が目立つ長い首。見ていられないので俺は持参した薬局の袋に目をやり、徳用カルシウム錠の箱をつかみだして、ハチの枕の横に力強く置いた。

「これやる。腹刺されて生還したのに、卵詰まりで死にたくないだろ」

ハチは箱を見つめて何故か叱られた犬のような顔をした。

「ヨシ君、俺もうこれ要らない」
「ハチ…?」
「もう腹の中にないんだってさ。卵産む内臓が」

痩せたハチの手が布団の上から腹のあたりを撫でている。
 
倫子の包丁の切っ先はハチの腹の奥の卵巣と卵管をブッツリと断ち切ってしまった。もともとろくな生活をしていなかったハチの内臓は弱っていて、縫い合わせて繋いでも元には戻らなかったらしい。弱ったハチを生かすために卵にまつわる内臓は全摘出された。だからハチはもう卵なんか産まない。

「……」
「どーせ、卵なんか毎日産んだって、ヤルことやらなきゃタダの生ごみだし」
「そうだな」
「卵なんか暖めたくないよ俺」
「ああ」
「なんでヨシ君がそんな顔してんの」
「しらん」

目の奥が痛いような、鼻水が勝手に鼻の穴からあふれ出すような不快な感覚。俺はぐいぐいとハチの顔にカルシウム錠の箱を押し付けた。

「とりあえず……飲んどけ。骨が強くなる」
 

ハチが刺されてから二度目の春が来た。塀の向こうにいる倫子に向けて、ハチが生きていることを手紙にしたためて送ったが特に返事はない。

「おかえり~」

退院したハチは勝手に俺の部屋の合い鍵を作り、こたつを持ち込みくつろいでいる。こたつの天板にべったりと肘をつけ、ヨーグルト味のカルシウム錠をぼりぼりと齧りながら俺に向かって手を振る。入院中にバッサリ切った髪はもう肩まで伸びていて、前髪を適当に頭の天辺でくくっている。またいつかハチミツ色に染めるのだろうか。

「ヨシ君の部屋ってさ。なんか居心地いいんだよね。暖かくて、適度に散らかって……」

まるで卵の中?いや出来かけの卵を包む内臓?ハチは半分寝ているような顔でぶつぶつと呟く。

「気持ちが悪いたとえをするな。もうこたつをかたすからどけ。」
 
俺は相変わらず毎日糞と卵をひって、飯を食って、働いて、歌を歌っている。誰のための歌でもない、卵を産むように俺の中から出ていくのを止められないだけの歌だ。
結局のところ、俺もハチもそれから倫子も自分の思うようにやっていくしかできないのだろうと思う。そしてきっとこの世のものは大体そうなのだろうと、俺は勝手に思っている。
 
おわり

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