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大改造人間キシワダ_0

0.目を開けば色彩の地獄

 灰色だ。その壁は灰色の分厚いコンクリートでできていて天井に近いところに四角い穴が開いている。その穴は鉄格子がはまった窓だ。ガラスはない。赤さびた格子の合間から、湿った冷たい風が吹き込んでいる。もうすぐ雪を連れてくる風だ。
 部屋の真ん中で横たわる黒くて湿った生き物がぐしゅっとくしゃみをした。生き物は人間のような形をしているが、その体格は標準的な成人男性よりずっと大きい。そして肌や髪はタールのように鈍く光る黒色をしている。生き物がもう一度くしゃみをして、長い手足をちぢめるように丸くなった。
この生き物は気がついたら服も着ないでここにいて、ほとんどの時間を眠って過ごしていた。たまに今のように寒さで目が覚めるがすぐに眠気に負けてまぶたが落ちる。そんなことをずっと繰り返していた。
 壁と同じ色のコンクリートの床の上で横向きに丸まっている生き物は、手のひらを何度か開いたり閉じたりした。生き物は眠たげなまぶたの奥の水銀色の眼球で自分の手のひらを見つめていた。タールのように黒くゴムのように弾力がある皮膚と筋肉はよくみると微かに透けていて、それ等の組織の向こうに黒い影がある。影は指を動かすと一緒に動く。どうやらそれは生き物の骨格だ。ウゥ、と生き物はつぶやいた。窓から差し込む淡い冬の太陽光に水銀色の目を何度か瞬きさせる。
 金属がぶつかり合う音に生き物は上半身を上げた。初めて耳にする音だ。湿った髪から墨汁のような液体が散って、コンクリートに水玉模様ができた。
 軋む音とともに部屋の隅にある金属製の扉が開いた。人一人が四つん這いでやっと通れるような小さな扉に、真っ白で細い指がかかっている。ア、と生き物は口を開けた。白い指がぺたぺたと床を這い、痩せた男が扉から顔をのぞかせる。石膏のような顔色の男は、ボサボサの白い髪が肩に触れるのをうっとうしそうに払った。

「おいキシワダ。俺だ。俺が分かるか。ニジだ。覚えてるか?」

 痩せた男は血の色が透けた赤い瞳でキシワダを見つめている。キシワダはカチリと歯を鳴らした。黒い唇が薄く開くと合間から尖った鉛色の歯が見える。黒炭のように黒い舌が震え、暗い喉の奥から音がした。

「ニ、ジ」
「しゃ、喋れるのか!そうだ俺はニジ!まさか、おまえと話せるなんてな!これは予想外だ!」

 ニジがしかめた顔を一転させて子供のように笑うと白い頬が微かに赤くなる。キシワダはゆっくりと瞬きをした。

「ああ、喜んでる時間もねえ。早くこっち来い!ここから出るんだ!先生をぶっ殺して自由になろうぜ」

 床に這いつくばったニジが冷えた床を手のひらで叩く。

「ココ……」
「そう。ここは先生の研究所だ。俺が作られた場所!ほかにもやばいやつがいっぱい作られて保存液漬けになってる。でもおまえはそうじゃない。半分は俺が作ったようなもんだ。先生に内緒でな」

 ははとニジの乾いた笑い。キシワダが首を傾げるとポタポタとタールのような体液が短い髪をつたって床に落ちる。

「ほらそんなことはいいからこっち来い」

 キシワダはコイ、と小さくオウム返しするとニジの方へと這い寄った。

「よし。偉いぞ。俺の言葉がちゃんとわかるんだな」

 ニジの体温が低い手のひらでキシワダの濡れた頭をがしがしと雑に撫でる。キシワダの頭がされるがまま、がくがくとゆれた。そのニジの手の感触は心地よく、どこか懐かしさを感じた。キシワダには記憶など何もないというのに。
 

 
 キシワダが低い扉から這い出ると、ニジは塗装があちこちはげた金属の扉を裸足で蹴って閉めた。扉の下の方にはスリットがある。食事でも差し入れるのだろうか。キシワダには物を口に入れた記憶などなかった。
 ぼんやりと立っているキシワダにニジは布の塊を押しつけた。キシワダがとっさに掴むと、広がった布は黒色の分厚いフェルト地で出来たロングコートだった。

「早くこれを着ろ」
「きる」
「このなりの俺が言うことじゃないが、全裸じゃ目立つからな……」

 キシワダはニジの姿を見下ろす。ニジは白い。髪も皮膚も石膏のように真っ白で、身につけている帯のない浴衣のような検査着も白い。ただ重たげなまぶたの下の瞳だけが血の色をしている。

「しろい」

 ぷかりと頭の中に浮かんだ単語を口にする。ニジは目を眇め、自分の手の甲をながめる。

「ん、俺か?ああ、白い、か。……おまえ思ったより賢いな。本当に想定外だ。混ぜ物のせいかな」

 ニジは眉根を寄せつつも口元はニと笑みの形にする。

「かしこい」
「そうだ。賢い。それは分かったから早くこれを着ろ。服だ。こう、腕をそこに通せ……」

 キシワダは背中を丸めて袖に腕を通す。キシワダの手の先は爪が無い代わりに尖っていて、袖を少し裂いてしまった。ニジがうなる。

「本当はもっと人間に見えるように繕ってやりたかったんだが、先生みたいにうまくいかねえ」

 ニジは背伸びしてコートの前ボタンをとめてやった。重たいフェルト地のコートの丈はキシワダが直立すると膝より少し上にしかならない。ニジはため息をついて、その場で跳ねるとコートのフードをキシワダの頭にかぶせてやった。影が落ちた目元で二つの瞳が水銀色に輝いている。

「あ~…まあ全裸よりましだ。行くぞ」
「まし!」
 

 
 同じ形の縦長の窓が並ぶ廊下をニジは裸足でぺたぺたと歩く。その少し後ろをキシワダがついていく。ニジの白い検査着からはみ出た足には、縦に何本もの縫い目が走っている。キシワダは自分の足を見たがそこには縫い目はなかった。キシワダはぷいと足から目をはなして窓の方を見た。窓の外には石畳敷きの中庭を挟んで、こちらと同じ形の窓がついた建物が見える。その外壁はキシワダがまどろんでいた小部屋と同じ色のコンクリートだが沈んでいく夕日がその表面を茜色に染めていた。キシワダは思わず足を止めた。

「ニジ」
「なんだ?おい止まるな止まるな」
「ゆうひ」

 頭に浮かんだ言葉を口にするとニジはまた眉根を寄せたまま口だけは笑っている不思議な表情をした。

「どこでそんな言葉を覚えたんだ?それとも元から人間の言葉を知ってたのか」
「……」

 キシワダは中途半端に口を開けて固まった。返すべき言葉は頭のどこからも出てはこなかった。

「まあいい。早く行くぞ」

 ボサボサの白髪を片手でかいてニジは歩き出す。緩やかな袖から見える前腕にもいくつもの縫い目がある。キシワダは裂けたコートの隙間から見える盛り上がった筋肉を包むつややかなビニールのような皮膚をながめた。そこにはやはり傷一つない。キシワダにとって腕も手足も窓の外の茜色より見覚えがないものだった。
 

 
 キシワダはニジの背中を追っていくつかの角を曲がり、階段を降りた。何階分を降りたのかは分からない。いつの間にか廊下に窓がなくなり、天井の蛍光灯が青白い光を放つようになった。光に照らされ、いくつもの扉が廊下に並んでいる。

「よし、ちょっと寄り道だ。先生をぶっ殺すには武器がいる。おまえにやらせる訳にはいかねえからな」

 やっとキシワダの方に振り返ったニジはそう告げると、扉のノブの真上に取り付けられた黒い箱のような装置に人差し指を差し込んだ。ニジの指の腹の複雑な指紋を読みこみ扉が開く。ニジは扉を開け放つとキシワダを手招きした。
 自動点灯した照明が照らし出すのは壁沿いに並んだ巨大なガラスの筒だった。液体の中には人のような物がうずくまっている。裸の男のようなもの、女のようなもの。姿は人間には似ているがどれも人にはないパーツが人体と混ざり合っていた。

「あ?そいつらは失敗作だ。先生が作ったろくでもない化け物。そこで漬かってる奴らはそこから出ればそう長くは生きられん」
「しっぱい」

 キシワダの手のひらがガラス面に恐る恐る触れる。青色の液の中に沈んでいるそれの身体には硬そうな植物の茎が何本も生えていた。それの呼吸に合わせて白い泡がたえず天井に向かって上っている。キシワダの口はぽかんと開いていた。

「まあこの俺が一番の失敗作だがな!」

 ニジは壁際の棚から引き出しをひっぱりだして出し床に放った。金属の引き出しが床にぶつかるけたたましい音にキシワダは飛び上がった。ニジは床にしゃがみ込んで、無秩序に散らばった書類やファイルをかき分けていく。

「俺の中の記録が正しければこの辺に……」

 指に感じる冷たい金属の触感にニジはへへと笑う。

「こいつで先生の頭を吹っ飛ばせば俺たちは自由だ」

 ニジの手の中には一丁の拳銃があった。キシワダはなぜか見たこともないそれを恐ろしいと思った。

つづく

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