ビシン・トウルイ・ゲッペイ・ゴミパンダ
海龍街の一角にある廃ビルから煙が上がったのは、晴れて空気がよく乾いた冬の昼間だった。集まった野次馬の一人がぽつりとつぶやく、あのビルにはどっかから流れてきたタヌキ囃子の一座が住み着いている、と。
とがったトゲが並んだ重い甲羅を背負ったワニガメの少年がパカンとくちばしのような口を開いたまま、野次馬の合間から煙を上げ続けるビルを見上げていた。
熱気をはらんだ黒煙がタヌキのシロの頭の上を通り過ぎていった。名前の通りに真っ白な毛並みも細かい花柄の着物も煤で黒く汚れている。いつの間にか前を走っていた兄弟分の背中が見えなくなった。煙のせいか悲しみのせいか、小さな目から涙が、鼻から鼻水がとまらない。シロはぺたんとひび割れたコンクリートの床の上に座り込むと小さな手で涙と鼻水を拭ってはケホケホとむせる。
じりじりと迫る熱がシロの毛先を焦がしていく。縁が丸い耳に何かが燃え落ちる音がささって、シロは恐ろしさのあまりに目をつぶった。
「おかあちゃん……」
シロはもう姿も覚えていない母を何度も呼ぶ。すると小さな体が何かふかふかしたものに包まれた。シロはそっと目を開く。自分と同じ、真っ白な獣毛に覆われた手のひらがシロの体を抱き上げていた。
「おかあちゃん」
手のひらがやさしくシロの体をゆさぶる。シロは安堵して目を閉じた。
◇
解体業を生業とする強羅組を率いているのは壮年のワニガメのゴウラだ。狭い路地に建物同士が肩を寄せ合うように密集したこの街で、ゴウラの厳つい顔に似合わない繊細な仕事ぶりは評判だった。ただし、強羅組の構成員は全員、寒さに弱いカメなので12月末に仕事を納めれば、組ごと温泉地の保養所に引っ込んで春までは出てこない。
この夏、強羅組に入ったばかりのアカミミガメの若者が、事務所廊下の寒さに首をすぼめる。先輩たちの話では、いつもならもう仕事を納めて海龍街の北の山にある玄武温泉で春まで骨休めとなるらしいが、今年はそう行かない事情がある。廊下の奥にある応接間でゴウラが誰かと話している声が聞こえる。
「おめえの粗暴さと雑な仕事っぷりにはあきれる。だがアライよお。俺はおめえのガッツは買ってんだ。おまえのガッツはだけはよ。今回の仕事はある廃ビルの解体を邪魔してる何かを排除してほしい」
流木を削った立派な机を挟んで上下作業服姿のゴウラとぷくぷくに太ったアライグマが向かい合っている。ナイロン製のくすんだ緑のフライトジャケットを着たアライグマは背中を丸めてだらしなく座り、ぎちぎちを奥歯をならした。アライ。それはアライグマたちがよく使う偽名だ。
アライの器用な五本指の手のひらが掴んでいるのは労災報告書だ。アライはぽいとそれを乱暴に机の上に放り投げた。黒いアイパッチのような毛色に埋もれてよくわからないが、その目はいやそうに眇められている。アライが見つめる書類に記載されているのは。すべてとあるビルの解体作業で起こった労災だ。ごく軽微な者から死者が出てもおかしくないような事故さえある。
「おれらはトラブルシューターをやらしてもらってる」
「トラブルシュ……?」
ゴウラのうろこに囲まれた小さな瞳がいぶかしげに細まる。アライは舌打ちして、ぼりぼりと尻をかいた。
「何でも屋だ!カネさえもらえれば何でもやる。一応はな」
「ああしってる。お前ら、仕事は雑だがやり遂げるからな」
ゴウラは何度かアライに依頼をしている。そしてこのワニガメは自分よりずっと若い無礼なアライグマのことを不思議と信頼していた。
「おれら、カネさえ十分ならちょっとした無茶もやる。だが……バケモンや幽霊退治はやらねえ。これはそういう仕事だろ。他をあたんな」
「ああそうだ。報告書には出てこねえが、ビルの中で妙なもんをみたって作業員も多い。俺だって手は尽くしたさ。御祓いだって何度もやった。だがだめだ。ビルを壊そうとすれば、みんな祟りにあって追い返されちまう。ウチの連中はみんなおびえて、何があったかも言いたがらねえ」
「あんたは現場に行ったのか?」
アライはしましまの太い尻尾をいらだたしげにソファの座面に打ち付ける。ゴウラはオウムのくちばしに似た口先をカチカチとならす。
「ああ行った。そして見た」
「見た?」
「白い獣をみた。あれはこっちの理のもんじゃねえな」
ゴウラは秘密を打ち明けるように重たい甲羅ごと前のめりになった。アライのみじかいマズルにしわが寄る。ゴウラはぱくりと口を開けた。笑みの表情だ。
「同郷のよしみで引き受けてくれんか?年内には解体を済ませたい」
「おい、もう12月も半ばだぞ」
「手は尽くしたといったろう」
そろそろ寒さで関節が痛んでな……と急に年寄りぶるゴウラにアライはふたたび舌打ちした。
「報酬は?」
「ああいつもより色をつけよう」
「カネは1/3は俺の口座。2/3はハナさんの口座に振り込んでくれ」
アライはフライトジャケットのポケットから月餅を取り出す。そして旧知の間柄とはいえ客先の事務所にもかかわらず、鋭い牙が並んだ口ででむしゃりとかじりついた。甘い。つややかで香ばしい皮の奥にたっぷりと詰まった黒あんがアライの脳に多幸感をもたらす。
月餅を一つぺろりと平らげたアライはスマホの通話アプリのボタンを押すと「ミカミぃ!」と叫んだ。スマホからは「おつか~」と間延びした声が聞こえる。
窓をたたく音。アライはすたすたと歩み寄ると勝手に窓を開けた。電線をつたってパッションフルーツ柄のシャツの上に黄色いパーカーを羽織ったハクビシンが応接間に入ってピンクの鼻と白いひげをヒクヒクと動かした。顔のど真ん中から鼻先まで伸びた白い毛並みの横でブドウのように丸い目が輝いている。ゴウラは寒いから閉めろとごつい爪がついた腕でジェスチャーをした。
「ミカミ!おまえはこの事務所に玄関があるのをしらんのか?」
「へへどうも。道をてくてく歩くより電線伝ったほうがおちつくんで。おれは」
ゴウラの小言をミカミはヘラヘラと笑いながら流す。ミカミが歩くたびに甘酸っぱい香りがあたりに漂う。ビタミンカラーのパーカーのポケットにはいつも好物のバナナが突っ込まれているからだ。
「ウチのアライがどうせ仕事を受けると思ってたんで、勝手に下調べしときました」
「ミカミおまえ……」
アライの短いマズルにまた怒りじわが寄る。ミカミはソファに座ると勝手に話し始めた。
「近隣のビルの外壁をのぼって、問題のビルを上から眺めてみたぐらいですが……よくある廃ビルっすね。なんかあちこちに焼けた後がありましたけど。誰か死んでます?」
ミカミが首をかしげる。隣で背中を丸めているアライのマズルのしわがますます深まる。
「……俺がガキの頃に火事があった。その頃にはもうビルの持ち主はいなかったが」
「不審火か?」
アライが口を挟むとゴウラはゆっくりとうなずいた。
「ああ。無人のビルに身寄りがねえタヌキ囃子の一座が住み着いた。そいつらの炊事の火が荷物にうつって広がったって話だ。たしか死人は出なかったが……いや後から知ったがタヌキの子供が一人見つからなかった」
ミカミはゲーと鳴き声を漏らしてアライの方を見る。アライの毛が逆立っていた。アライはイライラと腹毛を掻く。
「じゃあガキの幽霊がでるのか……?目覚めがわりいな!」
「死んでるとはかぎらん。望みは薄いが……死体が出なかったからな。まあ生きていたとしてももうジジイかババアだ。ミカミ他に何かあるか?」
ミカミは黒毛の先が細い長い尻尾を揺らす。
「屋上に稲荷神社があった……」
◇
時刻は深夜23時。少し欠けた月がまぶしい。酔客たちが廃ビルを見上げるアライとミカミを不審そうな目で眺めては避けていく。
「ゴウラ社長の話じゃ、屋上の稲荷神社はとっくに御霊抜き済みで、解体の見積もりで調査に入った時には社の中はカラだった」
「じゃあ大昔の火事で行方不明になったタヌキの方が祟ってんのか。やりずれえな」
アライはポケットから月餅を掴むとかじりついた。白あんだ。甘いにおいに隣のミカミが鼻をヒクヒクと動かした。
アライもミカミも深夜にいわく付きのビルにずかずかと踏み込むことなどしたくはなかったが、アライもミカミも夜型で昼間は瞼が上がらない。結局いつも通り夕方まで寝て、だらだらとメシを食って出たのでこんな時間になってしまった。
「結局おれらはどうすりゃいいの?除霊?はは、むりじゃん」
ミカミはパーカーのポケットから好物のバナナを取り出すと皮を剥いてむしゃむしゃと食べ始めた。シュガースポットがあまり出ていない、酸味があるバナナがミカミのお好みだ。アライは二個目の月餅をかじる。それには甘く味付けしたナッツがぎっしり詰まっており、とにかく美味い。
「しらん。とにかく明日から工事に入れるよう怪異だか幽霊だかを今晩中に追い出すなり退治するなりしろと。ふざけてやがる」
「警察に通報される前に済まそ」
通りの人気が途絶えたのを見計らって、ミカミがするりと破れかかけたシャッターの間からビルの中に侵入した。アライも続いたが脂肪がたっぷりついたケツが詰まって入れない。アライは何か口汚い罵り言葉をつぶやくと尻を振って力任せに入り込んだ。シャッターが付け根から壊れる音にミカミはゲーと諦めの鳴き声をもらした。
「空気が重い……」
冬毛にまとわりつく空気が粘つくようだ。ミカミの瞳孔がぐっと広がった。二人はあたりを見回す。ミカミとアライは夜目が利くので、長年放置されて汚れた窓ガラス越しの街灯や飲食店の光さえあればガランとしたビルのフロアを見渡すことが出来た。
そう広くもない空間に生々しく焦げ跡が残った柱が何本も立っている。残留物は強羅組の面々が片付けたのかほとんど何もない。アライは短いヒゲをひくつかせてあたりの臭いを嗅ぐ。瞼の上に生えた短いひげもぴくぴく動く。ミカミもあたりを見回し、割れたタイルの上を歩き回った。おかしな気配はなく、ただの薄気味悪い廃墟としか思えない。アライは床に転がっていた廃材、鉄パイプを拾い上げて、ビュンとふる。
「出てこねえっていうならあぶりだしてやる。俺はさっさと帰りてえ」
アライはその体形に似合わぬ俊敏な動きで素早く窓ガラスを一枚割った。
「アライさん?!」
ミカミの素っ頓狂な悲鳴にアライは歯を剥いた威嚇の顔を見せる。アライはすたすたと歩きながら窓ガラスを順番に割り始めた。ミカミは眉間にしわを寄せて柔らかい耳を手のひらで隠す。
「オラ!さっさと出てこねえと俺がこのビルを解体処分だ!」
アライは叫びながら今度は壁に残った配線を引きちぎる。ミカミはきょときょととビルの外を気にしている。この騒ぎで警察をよばれて前科がつくのはごめんだった。
「立ち去れ!狼藉もの!」
「立ち去れ!狼藉もの!」
ガラスをひっかくような不愉快な声がエコーのように重なって響く。思わすミカミは尻尾の毛を逆立てて飛び上るがアライは怒りを滲ませ叫び返す。
「うるせえ!死人だか稲荷だかなんだかしらねえが!カネも払わずにだらだら居座るんじゃねえ!ここはもうぶっ壊すんだ!出てけ!俺のカネのため出てけ!」
アライは声がする方に手の中の鉄パイプを投げた。闇に吸い込まれた鉄パイプがむなしく転がる音がする。
「愚かな獣め」
「愚かな獣め」
言語にならない獣の声が響き、空気がビリビリと震える。光だ。太陽のようにまばゆい光が息巻く二人の視界を奪う。
「まぶしい~」
「くそ!」
二人はこしこしと目をこすった。生暖かい風が建物の奥から吹き荒れる。まぶしさにかすむ二人の視界に二体の狐が浮かび上がる。白く輝く異形の狐が二体、空中に浮かんでいた。ピンと尖った耳、白い着物、朱色の袴の輝く狐は巻物を咥えたまま、口も動かさずに語りかける。太い尻尾は毛先が輝き陽炎のように揺らめいている。
「ここは私の場所だ」
「ここは私の場所だ」
アライの前に立ちふさがる右の狐がしゃべると。ミカミの目の前の左の狐が全く同じ言葉をしゃべる。
「ガキじゃなくてキツネの方だったな」
アライがどこか安心したようにつぶやくと、素早く目の前の狐に飛びかかった。
「アライさん?!」
ミカミが叫ぶ。狐はかすみのように消え失せ、アライはごろごろと荒れたフロアを転がっていく。
「話にならない」
「話にならない」
輝く狐の言葉に粗暴なアライへの嫌悪感が混ざる。ミカミは恐怖に耳を倒しながらもスンスンと空気に混ざるにおいを嗅ぎ分けようとした。月餅、バナナ、かび臭い空気、知らない獣の匂い。
「左だ!俺からみた左のヤツしか臭いがしねえ!アライさん!あんたがとびかかった方はたぶんまやかしか幻覚だ」
「ミカミぃ!よくやった!」
埃まみれになったアライは獰猛に笑うと、ミカミが本体だと指さす方の狐に向かって牙をむく。するとそれまで無表情だった狐の顔がおびえに歪んだ。
「何をするつもりだ!」
においがしないという無表情の一体が叫ぶ。おびえたほうの一体は復唱をしない。アライはケッケッケと笑いを浮かべた。
「ミカミぃ!こっちは俺がシメる!お前は屋上に回れ!」
「オッケー!稲荷神社のほうだな」
ミカミは姿勢を低くすると四つん這いになり、狐たちの足元をすり抜けるように走った。アライが割った窓から外に飛び出し、ビルの壁面のむき出しの配管を伝ってするすると上っていく。ふと何かに気がついてアライにむかって叫んだ。
「つーか、俺がいってどうすれば?!」
「わからんが社をバキバキに壊しちまえ!」
「俺、アライさんと違って、そういうの得意じゃないんだけど……」
「ガタガタ言うな!やれ!」
ミカミはゲーと鳴き声を上げると壁面を駆け上がった。
「さ、どうする。お前らのねぐらはビルより先に解体処分だ。止めてぇなら俺をぶったおしてからミカミを追いな」
アライが組んだ指をならす。無表情の狐はアライを見下ろすと溶けるように姿を消した。
「あ?どういうことだ!」
アライたちが本体とふんだ、もう一体の狐は相方が消えた虚空を見つめて固まっている。アライが軽くその足を蹴ると、脱力するように狐はアライに倒れ込んだ。暖かい毛皮、獣の匂い。その感触は幽霊でも物の怪でもないようにアライは思えた。
「おい、お前らはなんなんだ」
狐はボンヤリとアライを見つめている。きゅうと狐の腹から音が鳴った。長い鼻づらがふるえ、すんすんとアライを……アライのフライトジャケットのポケットの辺りの匂いを嗅ぎ始めている。
「幽霊でも物の怪でもないのか……?」
アライはいぶかしがりながらもポケットをあさり、ためしにと月餅を狐に差し出した。狐はきゃんとか細くなく。口からポロリと巻物が落ちた。
「……よくわらんが食えんのか?おい俺の手ごと噛むな!」
ばくんと大きな口がアライの手ごと月餅を口に入れる。その生暖かい感覚にアライの背中の毛が逆立った。狐はアライのとっておきのドライフルーツ入り月餅をかつかつと食べはじめた。
月餅を一口飲み込むたびに狐の毛並みがぞわぞわと波立ち、毛先にまとった光が消えていく。しゅるしゅると背が縮み、立派な手足も小さく小さく。尖った耳も丸くなる。呆然とするアライの目の前で、狐の怪異は煤に汚れた花柄の着物をまとった小さな白いタヌキに姿を変えていた。
冷たい月明かりの下で色あせた朱塗りの社がたたずんでいる。錆びた手すりを蹴って屋上に着地したミカミは恐る恐る小さな社へと近づいた。風化した鳥居が倒れ、社を押しつぶしている。
「狐……」
ミカミは呟く。崩れた鳥居の下で白磁の狐が一つ粉々に割れている。手のひらに乗るような小さな狐。ふと崩れた社を見ると、がらんどうの社の前に古ぼけた白磁の狐が一つたたずんでいた。ミカミはそっとそれを手に取った。巻物を咥えた狐。ミカミの硬い肉球に陶器の冷たい感触がじわじわと伝わってくる。
「使えるべき主は天へと還った。支えあった同朋も砕けた」
「げ!」
月光を背にして白い狐がミカミを見下ろしている。
「やっと失った同朋を取り戻した……わたしはここをずっと守る」
狐は尖った金色の爪が付いた手のひらを震えるミカミに向かって伸ばした。
「アライさん!こいつが怪異の正体です!」
アライが叫ぶ!バナナと一緒にポケットに突っ込まれた通話状態のスマホから音割れが激しいアライの怒声が響き渡る。
「クソ狐!」
片手にスマートフォン、もう片手に白いタヌキの子を抱えたアライが屋上に繋がる扉を蹴倒し、姿を現した。狐を睨み啖呵を切ろうとするが長い階段が体にこたえて息が切れている。アライの小脇でタヌキのシロは大人しく二つ目の月餅を食べていた。
「はーっはーっ!てめえ!ガキさらって相方に変えていたのか」
「才がある子だ。現世の理の外で存在できる霊力があ…」
無表情の狐の目の色がアライの小脇に抱えられたシロの姿をとらえて揺らいだ。
「おまえ現世の食物を食べたのか……」
小狸は夢中でもぐもぐと甘い月餅を口にしている。
「長い時をかけてこちらへと導いたが……もう戻れない」
「言いてえことはそれだけか」
アライの横にはいつの間にか陶器の狐を抱えるように両手で持ったミカミがいる。わなわなと震えた狐はうなだれ首を横に振る。
「……ああもういい。私は疲れた。同朋のところへやってくれ」
「心配するな。お前も粉々にしてやる」
アライはミカミの手から白磁の狐を取り上げ、足元に叩きつけるために振りかぶった。
「おじちゃんだめ!」
「お、おじ!?」
シロの言葉にアライはショックを受ける。シロは体をぷるぷると振って立ち尽くすアライの腕の中から抜け出し、うなだれる狐の手を取った。
「あのね、わたち、おぼえてる。この手おぼえてる。おねえさんがたすけてくれた!」
「え?どういうこと?」
ミカミは首をかしげてしゃがみこみ、シロと目線を合わせた。シロはうつむいて、もじもじとしながらも言葉をぽつぽつと絞り出す。
「わたち、白いから、みんなとちがうから。いつもみんなのうしろについてくの。あのときもそう。でもきがついたらだれもいなくて、あつくて、こわかったけど、わたちとおなじ白い手がたすけてくれたの」
シロは輪郭が薄れて光を失っていく狐の手をぎゅうと握った。
「ありがと。おねえさん」
すんと明かりが落ちるように狐は姿を消した。シロは首をかしげる。
「おねえさん……いなくなっちゃった」
アライは舌打ちをした。ミカミは肩をすくめる。
クリスマスイブの浮かれた夕方。アライは重い紙袋を両手に持って歩いている。アライとミカミはゴウラが振り込んだカネを多めに引き出して沢山の菓子と玩具、それからシロに新しい服を買った。もともと着ていた着物の柄に似た花柄のワンピース。ミカミは真新しい服を着て少し不安げなシロを肩車し、ぼてぼてと歩くアライの後ろにすたすたと続く。
「わたち、だいじょぶかな」
すっかりミカミになついたシロは柔らかいミカミの茶色い耳をフニフニと触る。くすぐったくてミカミはへへへと笑う。
「俺たちと一緒に暮らしてると、シロもあっという間にアライさんみたいに丸くなっちまう。俺に隠れて二人で月餅食べてるでしょ」
「うるせえ!」
アライが振り返って控えめな声量でミカミに吠え付く。
日暮れの繁華街を抜けると住宅街。家々の窓のカーテン越しに柔らかいオレンジ色の光が漏れている。シロは通りががった庭先のツリーの電飾のきらびやかさに思わずため息をつく。
「もうすぐ俺たちの家だよ」
ミカミは肩の上のシロに話しかける。アライの足取りが少しづつ早くなっていく。
「おうち?」
「そう」
滑り台やブランコが並ぶ小さな庭ある家。庭に面したガラス窓には星空を飛んでいくトナカイとサンタクロースの飾り付けがしてある。窓の向こうの暖かい部屋で巻き毛や短毛、様々の毛色の子犬たちがひゃんひゃんと騒ぎながらボールを追いかけたり、クリスマスの歌を歌っている。黒柴の少年が窓の外に気がついて激しく尻尾をふった。
「大兄ちゃんと中兄ちゃんだ!ママ!大兄ちゃんと中兄ちゃんが帰ってきた」
台所で大鍋に入ったホワイトシチューをかき混ぜていたラブラドルレトリーバーのハナが慌てて火を止め、玄関に向かって駆けていく。
「ぼうや!」
扉を開け、エプロンの下に暖かそうなセーターを着た初老のレトリーバーの婦人はゆったりと尻尾ふる。アライは涙ぐんでプレゼントが詰まった紙袋をその場において駆け寄った。
「ママ!」
ハナにとって、とうに成人したアライがずっとぼうやであるように、アライにとってもハナはずっとずっと愛おしいママだ。アライはハナに飛びつくように抱きついて、すんすんと鼻をひくつかせる。わしゃわしゃとハナの柔らかいクリーム色の毛をかき混ぜるように撫でるとハナはくすぐったいと笑った。
「元気で暮らしていた?ケンカはしてない?危ないことは?お菓子ばかりたべてない?」
「うんうん、おれちゃんとしてるよママ……」
ハナはくすりと笑って、アライの丸々と太ったおしりを軽くたたいた。
「ウソはだめよ」
「ごめんよママ!」
アライは天を仰いで口をぱかんと開ける。ミカミはスマホを二人に向けてシャッターを切る。
「母さん、この子がシロ」
ミカミはシロをそっと地面に下ろした。シロはぶっきらぼうで乱暴なアライの豹変ぶりに戸惑い、目を丸くしてミカミを見上げる。ミカミは穏やかに笑っている。
「あのひとが俺らの母さん。そんで今日からお前の母さんになるんだ」
「おかあちゃん……?」
「ほら行け!」
ミカミに背中を押されてシロは恐る恐る歩いていく。ハナはアライにしがみつかれたまま、にこりと笑ってゆったりと太い尻尾を左右にゆらした。
◇
湯煙ただよう玄武温泉郷の外れにあるゴウラの別荘は強羅組の保養所を兼ねていた。宴会場では仕事納めの宴が続いている。上座でゆったりと座り酒をあおりながら、楽しく騒ぐ部下たちの姿を眺めてゴウラは満足げなため息をつく。多少着崩れた浴衣の帯に引っ掛けた携帯電話がぴろんと鳴った。
ミカミからのメール。タイトルはなし。本文はMerry Christmasの一文だけで、一枚の写真が添付されている。
写真の中ではハナに中心にアライとミカミと小さな兄弟姉妹たちがぎゅうぎゅうに画角に収まっている。タヌキのシロはハナの膝の上、同じ年頃の茶色い巻き毛がツヤツヤと輝くプードルの少女にくっついて笑っている。
「メリークリスマス」
ゴウラはつぶやき、熱燗をあおった。
◇
遊び疲れたシロが眠ったのを見届けて、アライとミカミは家を後にした。深夜というにはまだ早く。街はカップルや友達同士で飲み歩く者たちで溢れている。
「我ながらいい写真」
歩きながらミカミはゴウラに送った写真を眺めて、にやにやしている。むっつりと不機嫌な顔に戻ったアライはフライトジャケットのポケットに手を突っ込んですたすたと歩いている。
「あっ!……アライさんみて!」
「なんだミカミぃ!」
柔らかいオレンジの明かりの下で撮った集合写真。よくみると写真の隅の方、耳を倒した半透明の狐がハナの家族たちから少し離れて控えめに写っている。
「あいつ!せっかく相方の欠片と一緒にママの花壇の隅に埋めてやったのに!」
アライの短いマズルが怒りのしわまみれになった。引き返して今度こそ白磁の狐をバラバラにしかねない勢いに、ミカミは慌ててアライに飛びついて羽交い絞めにした。
「まってまって!多分こいつも寂しかったんだと思います。ミカミはそう思いますよ!もうちょっと様子をみてやってもいいんじゃないかな……?もう無害そうだし」
ふうふうとアライは肩で息をしている。キンと冷えたクリスマスの夜。アライグマとハクビシンの兄弟はしばらくもみ合いになっていた。
おわり
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