見出し画像

「みんなちがってみんないい」の世の中の問題

「個性を大事にしましょう」。これはよく使われる言葉だ。学校教育が集団での教育で、しかもクラスの人数が多いため、個々の成長に合った指導ができないと言われる。

この個性は障害にも拡張され、障害も個性として、障害を持っていても学べる学校教育が必要だともいわれる。いわゆるインクルーシブ教育がそれである。個々の学習の度合いに差があるのは間違いない。問題はその前提で何をするかである。

「みんなちがってみんないい」。こうした主張がよく聞かれるようになった。ときに事実ですらも「あなたの事実と私の事実は違う」と言う人もいる。

そうするとまったくもって交わることはない。いわゆる陰謀論。あなたが知っている事実は彼らにとっては陰謀なのである。

もちろんあなたの人生なのだから、好きに生きたらいい。しかし「みんなちがってみんないい」はあまりにも無責任すぎると思うのだ。

何かの選択を人生においてしなければならない場合。「みんなちがってみんないい」では決められない。そんな中で、最後は自分で決めなければならない。そこで出てくるのが自己責任論。「自分で決めたんだから・・・」というのだ。迷っている人には「みんなちがうんだから、それでいいじゃん」というのに。

このように交わることがない現状に対して、人それぞれはやめようという本も出ている。

「正しさは人それぞれ」でも「真実は一つ」でもなく、「正しさはそれに関わる人々が合意することで作られる」ということです。

山口裕之. 「みんな違ってみんないい」のか? ──相対主義と普遍主義の問題 (ちくまプリマー新書) (p.165). 筑摩書房. Kindle 版.

結局のところ、合意を形成しようとしないことが多い。最近多くの人と会う機会が多いが、「それでいいじゃん」「やりたいようにやりなよ」という人が多い。それは誰でもいえる言葉だし、無責任も映る。

「なんでも感じ方しだい」というような言葉は、困っている人を励ますよい言葉のように見せかけておいて、その実、困っている人を困った状況に放置する態度を助長する言葉です。

山口裕之.「みんな違ってみんないい」のか?──相対主義と普遍主義の問題(ちくまプリマー新書)(p.169).筑摩書房.Kindle版.

もちろんすべてにおいて責任を取るべきだとは思わないが、意外と無責任な発言をする人が多いのだ。そこでこの著者は「人それぞれはやめよう」となるのだ。

とかく選択肢が増えている世の中で、どのような選択をすればいいか、迷っている人は多い。真剣に相談してくる人に対しては、その人とともに考えて、ひとつの結論を出すのが必要ではないかなと思う。

これからも記事を更新できるように、サポートをお願いします!サポートされるとかなり喜びます。