どこまでを同族だと考えるか

あなたが幸せにしたいと思う同族とは、どこまでの人だろうか。家族なのか友達なのか日本人なのか世界中の人なのか。

私は、自分が少しでも犠牲を払わなくちゃいけないのなら、少なくとも会ったことのない人は助けられない。

フランス人がテロで殺されるのは心が痛むが、シリアの人がテロで死んだとしても、ニュースとしかとらえられない。

日本人がテロリストに捕まった映像をアニメ風の絵にした人は、不謹慎だ。フランス人に対するテロは非難して、シリア人に対するテロは非難しないのは、不平等だ。それによって嫌な気持ちになる人がいることを考えていない。というのは正しいが、私的な気持ちを表現できないのも変だ。

これだけ、たくさんの人へ自分の意見がすぐに伝わる時代に、誰かを嫌な気持ちにさせることは発信すべきでないという倫理観は、時代遅れだと思う。

あなたが幸せにしたいと思う同族とは、どこまでの人だろうか。どれだけの人を嫌な気持ちにさせないで、幸せにするつもりなのか。そして、幸せにするための行動は何かしているのか。

他の人が犠牲になって、他のかわいそうな人を幸せにすればいいと思っている人達がたくさんいる。

金持ちに税金を納めさせて、自分の家から遠いところに保育園をつくればいいとか、

ヨーロッパに命がけでわたっている難民がかわいそうだ。ヨーロッパの人たち、彼らを助けてあげてよ。私は何もしないけどね。とか、

耐震偽装のマンションはけしからん。政府は監督しろ。でも、税金は上げないでね。マンションの価格も下げてほしい。ほら、マンションが安くなったら子供を作るかもしれないよ。少子化対策に貢献できるよ。とか、

民主主義は、これ以上の欲望はかなえられない。自分を犠牲にして、他人を幸せにしようとしない限り、他人を幸せにすることはできない。

あなたが幸せにしたいと思える同族とは、どこまでの人だろうか。その範囲外の人が不幸でもいいと言っている主張を非難すべきでない。あなたは何もしていないのだから。誰もが幸せになるべきだとう主張は無責任だ。

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