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似非脚本家反省記④~論理型と感性型、すなわちオカルトとデジタル的話~

どうも、とったんです。

最近、印刷工場に就職しました。(このご時世に?)
三日くらい勤務が続くと頭が痛くなりますが、
まあ慣れていくしかないでしょう。
働かなきゃ、生きていけないんだから…

なので、更新頻度は下がると思いますが、
以前から更新率は低めだから気にしない。
前回書いた予約投稿はぼくはしません(鋼の意志)

さて今回は外伝的な話です。
(お、ネタ切れか?)と言われればそうかもしれないですね。
そんなことないと思うんですけど、思うんですけど…。

今回は反省というより、ふと思った仮説を展開していく感じです。

それでは、本編。

・脚本は感情を使って書く、らしい

脚本は、感情を使って書くものだとされている。
この考えは、
『「感情」から書く脚本術』(カール・イグレシアス著 フィルムアート社)
『スクリプトドクターの脚本教室・初級編』(三宅隆太著 新書館)
などで詳しく書かれている。

上手な脚本家は、感情を絵の色のように塗り分けているようだ。

ときにぼくたちは、
作り手が異常なほどの熱量を持っている作品に出会うことがある。
そこには作り手の施した感情が込められている。

上手くまとまっているものもあるが、大概めちゃくちゃだ。
それでもなお、引き込まれるものがある。

・整合性は論理的に

とはいえ、整合性がないとお話に納得ができない、という人もいる。

大団円でハッピーエンド!となればいいけど、
それまでの道筋や伏線もなく雑に終わったり、
山場と言える葛藤のシーンが正当性なくなんとなくで解決したら、
見ている人はキレるだろう。(もしくはがっかりするだろう)

昔の人はそういうご都合主義的な展開を、
「デウスエクスマキナ(機械仕掛けの神)」という蔑称で呼んだらしい。
物語の途中で急に神様(舞台装置を使ってる)が現れて、
事件を解決してしまうことを揶揄している。

ちなみに、二次創作でオリキャラが無双し、原作キャラが太鼓持ちみたいになることは「メアリー・スー」と呼ばれているのだそうだ。
海外はそういう名称が豊富だなぁ。

・仮説:論理型と感性型

話を戻そう。

脚本は感情などの感性が重要な位置を占めている一方、
話をまとめるために論理的思考を使わねばならない。

感性と論理、相反する二つが複雑に絡み合ったものが脚本。
だとすれば…と、ぼくはある仮説を思いついた。
(嫌な予感しかしない)

脚本家には、
感性型と
論理型の
二つのタイプの脚本家がいるのではないか、と

いきなり二極化とは何事だとったんと思うかもしれないので、
順を追って説明しよう、できるだけ。(倒置法)

そもそも、この考えに至ったのは麻雀の考え方がきっかけである。

・麻雀というゲーム

麻雀は、不完全情報ゲームというタイプに位置する。

共有の山(カードゲームでいうと山札)から牌を一枚引いてきて、
十三枚の手牌(手札)プラス一枚を使って
特定の役(ポーカーでいうストレートやフラッシュ)を完成させる。
役を完成させる途中で、いらない牌を自分の前に並べていく。

このとき、プレイヤーの視点では
・自分の手牌十三枚
・自分の捨て牌(カードゲームでいう墓地、トラッシュ)
・対戦相手(四人麻雀なら三人)の捨て牌
・ドラ(得点が増えるおまけ)表示牌
が見えていることになる。

反対にプレイヤーから見えないものは
・残りの山
・対戦相手の手牌
・王牌(ドラ表示牌のあるところ。例外を除き使わない)
になる。

麻雀の上級者はこれらの見えている情報と見えていない情報から
想像し自分の有利な選択を選ぶようになる。

何が言いたいかというと、
麻雀は見えないランダムな情報を予想する必要がある、という話である。
そこで出てくるのがオカルトとデジタルという考え方である。

・オカルトとデジタル

オカルトとは神秘・超自然的なことを指す言葉である。
麻雀では「流れ」に代表される運の強さやツキといった抽象的な根拠で打牌(牌を捨てること)を選択することを指す。微妙に定義が違う気がする。

デジタルとは数値によってあらわされるもののことである。
麻雀では牌効率(上がりやすくする選択)や確率論を重視した考え方のことである。

麻雀界を大きく二分する考え方で、日夜議論されている。

どうしてこのような議論が起きるのかというと、
先ほど述べた「麻雀は不完全情報ゲーム」という要素が原因である。

麻雀研究が進歩した結果、統計的に麻雀の確率が割り出せるようになった。
しかし、麻雀は136枚をランダムに配り特定の並び(役)にするゲームである。そこに人の意思や選択の要素が介在している以上、偶然や統計では片づけられないことが起きることがある。

その偶然性を大事にしているのがオカルトで、
統計や確率を大事にしているのがデジタルである。

どちらが優れているかは断言できないけど、
卓上ではどちらも筋が通っていることになる。
論理的にはむちゃくちゃだけど。

ん?むちゃくちゃ?
話を冒頭にもどそう。

・脚本にもどして、感性と論理

脚本において感性とは、自分の見てきた経験や想像、考えなどを駆使して
その場でアイデアをひらめく力である。

脚本における論理とは、話を破綻させることなく成立させる、
話しの骨組みを組み立てる力である。

麻雀におけるオカルトやデジタルのように、
脚本にも、
・感性を重視、というか感性で考えるのが得意な感性型
・論理的に考えて作るのが得意な論理型
があるのではなかろうか。

無論どっちも必要な要素ではある。
ただ、バランス的にどっちかに特化してることって、
あるんじゃないでしょーか!?
と提言してみる。

本日の結論。
みんな、麻雀やろーぜ!

…外伝だからってやりたい放題過ぎるやろ。

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