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何故、石はそこにあるのか。

幼い頃から持っていた僕の疑問です。
常に考えていました。小学生の頃も中学生の頃も。

石が大好きだった僕は、石を見るたび思うのです。
何故、石はここにあるんだろう?

小学生の時、不意にその答えを漫画が教えてくれました。
「花が花であるように、石は石であろうとしているだけなんだ」
チッチとサリーでした。

物凄く納得しました。府に落ちたとは、このことを言うのでしょう。
その日から暫くはその疑問は起こりませんでした。

でもある時、ふと思ってしまったのです。
何故、石は石であろうとするのだろう? と・・・。

中学の終わりの頃だと思います。
家が貧乏だったので僕は何が何でも公立高校に行かねばならず、受験勉強で地獄の日々を送っている時でした。
おまけに、先輩のいない新設高校に行きたくて、無理をしていたんです。

その時の膿んだ魂が、真実を求めたのでしょう。
僕の新たな哲学の道が始まったのです。

その答えが出るのは、成人になって暫くしてから。
ある時、石を見ていて、不意に思ったのです。
「ああ、石は石として生まれたから、そこにいるんだな」と・・・・。

説明できない「納得」が訪れたのです。
例えていうなら、作麼生&説破(そもさん、せっぱ)から始まる禅問答のようなものです。

先ずは、師匠である禅師が公案を出します。
例えば、「両手を合わせればパチンと音が鳴る。片手ではどうか?」という公案に対して、弟子が無言で片手を振って答えます。
言葉は必要なく、答えは、魂同士でやりとりするのです。

そんな感じで、僕の答えは、魂にストンと落ちたのです。
突然、ああ、そうだったのか・・・です。
理由は分からんw

で、今は・・・・どうでもいい、が、今の僕の答えですww

開き直って自棄になって言っているのではなく、もっと大切なことがあるでしょう・・・と言う感じです。
石がなぜ存在するかは、石の課題です。石に任せておけばいいのです。

僕は、先ず、僕がどうあるべきか、を考えるべきだと思うのです。
他人のことなど考えている暇はない、
自分が、何に興味を持って何をしたいか、それが優先だと思うのです。
折角この世にもらった生なのだから、目一杯楽しみ、味わいたいのです。

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