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[小さなお話] ディラックの海猫飯店

一、目覚め

バンドの演奏するゆったりとした調子の歌が、人々のざわめきとともに、どこからともなく聞こえてきます。

そうしてアナタは思い出します、どこだったかはすっかり忘れてしまっているのですが、何とも心地のよいバーでうたた寝をしてしまっていたのだということを。

夢も知らない静かなまどろみの中からすっと目が覚めて、不思議なほど意識は冴え渡っています。

四人がけの席に座っているアナタからは、正面左手の舞台で三人組の男たちが楽器を奏で歌っているのが少し遠くに見えます。

(天国という名のバーでは、
あなたのお気に入りのバンドが、
あなたのお気に入りの楽曲を、
一晩中演じます。

天国という名のバーでは、
一切何も起こりません、
天国という名のバーでは、
一切何も起こらないのが、
自慢なのです)

そんな歌声を聴きながら、アナタはテーブルの上で忘れられていた白いコーヒーカップに目を止め、その冷めた黒い液体をアナタは少し啜ってみます。砂糖抜きのブラックコーヒーの、酸っぱく冷えて尖った味が舌に絡みつくのを弄んでいると、同じテーブルの右手に、誰かが腰を下ろしているのに気づいてアナタはしばらくその影をぼんやり眺めます。
顔は夕闇に紛れてはっきりせず、女なのか男なのかも分からないのですが、別にそれは気になりませんでした。
そして、考えるともなしにそちらを見やっていると、その人物の言葉が妙にくっきりとした輪郭で耳に入ってきたもので、きみははっとしたのです。

「つまり、……猫飯店のことなんですね」

その声は、年の離れた弟サブロウのものに間違いなく、遥か昔に故国を離れて以来、自分は弟に会ったことなど一度もないのになと妙に冷静に考えながら、背筋にひやりとしたものが走る感覚をくっきりと感じてアナタは思います。
そうだ、……猫飯店のことだった。

けれども、猫飯店がどうしたという話だったろうか。

何か問題があったような気がする。予約を入れるべきだったのに入れ忘れたのか、入れることができなかったのか。それとも入れたのに手違いで取れていなかったのだったか……。

背筋を走った冷たい稲妻は、もう漠然とした記憶に変わり果てていましたが、思考の背後に居心地の悪さとなってまとわりついていました。

大体です、猫飯店という名前自体に覚えがないのだから、おかしな話ではありませんか。名前には覚えがないというのに、その名前を聞いた途端にはっとして、何がどうはっとしたかも分からないうちに、その周りにまとわりつく曖昧な霞のごとき感覚だけが妖しい存在感を持って、背筋から首筋へと神経を伝わって頭蓋の中に入り込み、そして薄桃色の脳髄の隅々へと白々拡がっていくのです。

さて、右手に座る人物は暗い影の輪郭としか認識できませんでしたが、こちらの答えを待っているようにも思えました。

しかし、こちらの頭には白いもやが広がるばかりで、答えるべき何の言葉も浮かびません。

仕方なくアナタは考えます。

多分、問題というほどのものなど、そもそも何もなかったのだろう。

だからこうして曖昧にうなづいていればいいのだ。

というのも、結局のところ問題と呼ばれるものは、人間の巨大脳が作り出した壮大な遊戯を司る規則の一片にしかすぎないのだ。

ぼくたちは誰が造ったとも知らない遊戯の規則にしたがって、言葉を踊らせ、言葉に踊る。時には無言の楽譜に乗せて無音の歌を唄い続ける。

唄い続けるうちに、問題は溶けて流れて、源初にこそ存在しえた静謐な虚無の次元へと辿りつき、そのときそこには一つの謎だけが残るのだ。

だってほら、結局この全体は何なの? アナタは無問題ってうそぶいてればいいかもしれないけど、現に人生にうんざりしてるワタシはどうすればいいのよ?

そう、一体何をどうしたらいいのか。つまりそれが最後に残る猫飯店の謎なのである。

(いかないでーっ。船は出ていっちゃったけど塩辛残る、残る塩辛酒の種、ときたもんだ。ピンカートン)

まったく無意味としか思えないテレビ広告の文句を脳内で再生させながら、アナタは残された謎の目覚めとともに、しばらくの迷宮時間を過ごすことになるのです。

二、流されて南海

難解の晦渋と言っても南海の怪獣かもしれないのだから漢字の説明にならないと言ったのはかの小松左京氏であったはずですが、氏がその代表作「日本沈没」において我が日本列島をいとも簡単に大洋の底に沈めてしまった手際は実に鮮やかなものだったと言えます。

そして祖国が海底に没した一九七三年以来、私たち日本国国民は一億流浪の民となってこの蒼き母なる惑星(ほし)のあちこちを彷徨う運命となったわけですが、その薄幸の人生にさらに追い打ちをかけたのが、一九七九年の銀河ハイウェイの建設にともなう地球の爆破撤去であったことは今更改めて言うまでもないことであります。

しかし捨てる神あれば救う神あり、伝説の書「銀河ヒッチハイク・ガイド」に記された通り、我らが地球は、奇特で気まぐれな補完機構の一助を得て難なく復活、ところがその安堵も束の間、二千十一年には大震災によってヤポネシア列島の東半分は黄泉の国となってしまったのでありますから、人生は塞翁が馬のごとし、禍福をあざなってこの世を生きる道しるべとし、「星間船(スターシップ)と俳句」にあやかってダイニホン低國を死の国と化し、一億仲良くハラキリの凶地へと赴くのが低國臣民としては当然の務めだったのでありますが、嗚呼、冷酷なのはその身に降りかかる運命なり、高度経済成長の花盛りなる列島改造の時代に産み落とされたにも関わらず、あの愛おしくも的外れな情緒の持ち主である母が、底知れぬ安定感こそあるものの自己の範囲を越えると途端に怒り出す短気な父とのまぐわいによって受胎した、まさにその瞬間の星座の配置が悪かったに違いありません、物質的にはなんら不自由もなかったにも関わらず、本人も気づかぬうちに精神的にねじれこじれて成長を続けざるをえなかったため、ワタクシめはかくて南海に流浪の人生を送ることになったのであります。

さて、ワタクシめがその後に繰り広げることになる冒険の数々が、「楽園の泉」へとつながることになりますやら、はたまた廿一世紀のオデュッセウスの旅物語となりますことやら、乞うご期待くださいませ。

  *  *  *

そこまで読んでサブロウは、A4のざら紙に一枚辺り八百字の区切りで打ち出された五十枚ほどの紙束をテーブルに置いて、その一枚めにホチキスで留められた名刺を見ました。

名刺には、

  万事無能の夢見探偵
   アナタ・ジロウ

とのみ書かれていて、住所も電話番号もありません。

兄の生活能力の欠如具合は相変わらずだなとサブロウは思った。

いや、欠如などと生易しい言葉を使ったからといって事態が改善するわけではない。

本人自身が名乗っている通り、この兄はまったくの無能力者なんだからな。

サブロウは先程兄から渡された紙束に、東京世田谷の仕事部屋で目を通していた。

どこかお前の知り合いの出版社で、興味を持ちそうなところはないだろうかというのだ。

サブロウはグラフィックデザインの仕事をしていたので、出版社に知り合いがないわけではない。しかし、この出版不況のご時世に無名の新人作家の書いたままごとのような自伝小説を、知り合いの伝(つて)を手繰って出版しようなどとは、ご都合主義も甚だしいではないか。

つまりだ、残念ながら能天気な兄の妄想に、懇切丁寧に関わっている場合ではないのだ。

兄も世間知らずとはいえ、世の中の道理というものがまったく分からない人間ではない。とにかくこの件では協力できないことをはっきりと伝えて、あとは何とか兄なりに自活してもらうのがお互いにとって最善の道というものではないか……。

とはいえ人生というものは、往々にして自分の思うようには進まないものであります。

というのもサブロウは、まだ自分が兄の夢の登場人物にすぎないことを自覚していなかったのですから。

サブロウは、世田谷の実家の客用の和室で兄のジロウに会っているつもりでおりました。

けれども驚くべきことには、それは兄の妄想力が作り出したディラックの海に浮かぶ虚構の書き割り舞台の上でのことにすぎなかったのでございます。

夢見探偵を自称するアナタ・ジロウが、いつの間にこのような、ヒマラヤをさすらう大ヨーガ行者もかくやという人間意識操作の秘法を身につけたのかは、今ここで皆さまに詳細に説明するわけにもいきませんが、三千大千世界(みちおおち)の仏教宇宙を、降りしきる淡雪(あわゆき)の一粒ひと粒の結晶の中に見出した良寛さまの精神を宿されて、ディラックの海を埋め尽くす電子の一粒ひと粒に、我々人類の運命を映し出す摩訶不思議の技を実践していたというのですから、ここは皆さまがたも、指をしゃぶって眉にぺたぺたと唾をつけるなり、はたまたほっぺをぎゅっとつねって痛くないかどうかを確認するなどをして、このあり得ざる現実の不条理をしかと吟味しないわけにはいかないのでございます。

ああ、
ディラックの海の
真空を埋め尽くす電子の実存よ、
南海の孤島を囲むトルコ石の
彩りに照らし出されて幸いなる、
楽土の浜辺こそ我らが終着の地であるのか。

火星から少し離れて位置する時間等曲率漏斗は見逃し、
木星の近傍に開く星の門(スターゲート)も通り越し、
土星の惑星タイタンまでをも旅をしてオマエは、
やがて宇宙の終わりのレストランで舌鼓を打って。

  *  *  *

「キミが何者なのかは、やはりボクには分からないのだが……」そう言いながら兄は立ち上がって正面のベランダのほうへ歩いてゆきます。

兄の原稿の紹介を断ったもので、兄は妄想の世界に閉じこもることにしたのだなと、ぼくは思いました。

それでとにかく、ぼくも立ち上がって、兄のあとを追います。

けど、おかしいな。ベランダ? ここは和室のはずなのに。左手に小さな庭はあっても正面にベランダなんてあるわけがない。そっちには、もう目黒区との境の一方通行の車道しかないんだから……。

「とにかくキミが実際ここにいるからには、多分キミも南海流浪を共にすることになるのだろうな」

木枠の大きなサッシを開けてベランダに出ると、兄はそんな寝言を言います。

しかしそれが必ずしも寝言と言い切れないのは、ベランダの向こうに広がる白砂の浜と青々と輝く静かな海が現前するためです。

三、中有の鐘

そのときどこか遠くで鐘の鳴るのが聞こえました。

「とするとひょっとして、ぼくたちはこれからこのホテルの一室で血湧き肉躍る冒険を繰り広げることにでもなるんですかね?」

サブロウは自分の非現実性にようやく気づいて、アナタにそんな言葉を投げてみます。

遠くから幽かに、けれども通奏低音の存在感をもって世界を貫く鐘の音は、百と八つの煩悩の種を数える除夜の音に違いありません。

ここは地獄の三丁目、白昼堂々と年が暮れゆき、新たな一年が始まろうとしているのです。

ディラックの海猫飯店の名にふさわしく、白い海鳥がみゃーみゃーと騒ぐ声も聴こえてきます。

「冒険だって? 妙な勘違いをするもんじゃない。きみもあの歌を覚えてるだろう? ここでは何も起こらないさ。何も起こらないことがこの部屋の本質なんだからね」

アナタがそう言うのを聞いて、サブロウは頭の中が静まり返り、きーーーんと音が響き始めるのを意識しました。胸の辺りには何やら暖かい感覚が湧き上がってきて、兄との小さな行き違いのことにしても、あるいは今いるのがどこであるにしても、そんなことは別にどうでもよいことに思えてきます。

眼下に広がる浜辺の左手にはオープンエアのバーがあり、そこからバンドの演奏が聴こえてきます。

(天国という名のバーでは、
あなたのお気に入りのバンドが、
あなたのお気に入りの楽曲を、
一晩中演じます。

天国という名のバーでは、
一切何も起こりません、
天国という名のバーでは、
一切何も起こらないのが、
自慢なのです)

いつの間にか日は傾き、夕暮れ空気が西の空から訪れようとしています。

「つまり、……猫飯店というのは、ここのことだったんですね」サブロウはそう言ってアナタの顔をうかがいました。

アナタは (そうとも) というように首をわずかに、そして静かに何度か縦にゆっくり振ります。アナタは背筋を貫いて頭頂から尾骶骨に至るまで緩いS字カーブを描く冷たい神経の交絡線を確かめているのです。

不確かな言葉遊びでしかなかったディラックの海猫飯店は、こうして電子のスクリーン越しに受体して、脳脊髄液の微少海原をその手始めとして、この宇宙に偏在の網の目を拡げてゆくのです。

うたた寝をするかのように首を縦に振る動作を繰り返すアナタの薄桃色の頭脳は、130mlの脳脊髄液の中にぷかぷかと浮かびながら、全宇宙を満たす未在のディラックの海に投影されて、ありもしなかった諸々の問題や、あるということが生み出す切りのない謎を巡って、無限に続く推理の廻廊を逍遥し始めているのです。

アナタの耳の底には、夕闇の浜辺で騒ぐ海猫の声が残るばかりでした。

[癸卯正月二日、北インド・ハリドワル]

#小説 #NEMURENU #ネムキリスペクト #猫飯店 #白山羊派

(参照: talking heads "heaven" ほか)


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